価値の所在

僕は、僕がいるという現象、その存在の構造や意味、に興味がある。もう少し広く言うと、価値の所在、に興味がある。

 

最近、「ルンバ」というロボット掃除機を買ったのだが、人間はなんて能力が高いのだろうと思った。ルンバは、ちょっとしたものを動かして、その裏を掃除するということが出来ない。まあ、あたり前なのだけれど、掃除をするという行為には、それなりに複雑なプロセスが含まれているのだなと感じた。

ただ、しばらくすると、ルンバはとても優秀だなと思うようになった。ルンバは、お膳立て(つまり、床にある障害物をすべて避けてあげたりするわけだが)さえすれば、確実に仕事をしてくれる。人間はお膳立てをしても、仕事をしてくれないことがあるのに、なんて優秀なんだろう、と感じる。それなりに騒々しいので、家にはいられないが、それも含めて「お膳立て」かなと思う。

 

このところ、機会に恵まれて、自分ひとりではきっと聴くことがないだろうと思う曲に触れている。機能だけなら、Apple Musicのようなものでも良いのだろうが、(おそらくは)誰かが何かしらの想いによって教えてくれるということにも、意味があるのだと思う。

あまりにも陳腐な表現だが、音楽の価値、というものも考える。深呼吸をする、でも良いし、空を見上げる、でも良いのだが、そういったものにも何かしらの価値があると思う。

 

最近は、受験勉強なんかは機械学習に基づいた指導の方が効率的なのかもしれない、と感じたりする。受験、に価値があるのかはわからないが、いずれにせよ勉強なんてものは、何かしらの枠組みやお膳立てを構造の中に含んでいるのだから、合理的だし、むしろ本質的だと思う。

世界は、どこまでも無価値である、と思っているからこそ、もう少し「価値の所在」について考えてみたいと思っている。