永久的

人間というものは不安だからなのか、永久的なものを求めてしまうと思う。

 

永久的であるということと、不変であることはイコールではなくて、東洋では「変化」こそ永久的であると捉える傾向がある。中国の革命思想ほどドラスティックだったり、体系だっていたりはしないが、日本もそういう気分の場所だと思う。

しばしば、西洋の「石」に対して、「木」であったり、「紙」であったりの文化とされることもある。日本では、石に対してすら「穿つ」という表現がある。水が石を穿つというのは、とても面白いと思う。

 

変わるから不変であり、朽ちるから不朽である。そう思ってはいても、変わること、朽ちることに対しての虚しさを感じてしまう。虚しさを味わうべきだと思うし、虚しさも巡るものだと思うのだけれど、達観できないのは人間の悲しさだろうと思う。

 

巡ることと調和は、何かしらの関係があるのだと思う。留めておこうとする企みや営みがあるのであれば、巡らせようとする企みや営みもあって良い。留まる構造に対する思索や挑戦があるのであれば、巡る構造に対する思索や挑戦もあって良い。

他人になったことはないので確信はないのだが、僕はとても虚しさを感じやすいと思っていて、しばしばとっかかりを失ってしまう。それは都市のせいかもしれないし、人間のせいのような気もする。