自分の眼

自分の眼で見ることは想像以上に難しいと思う。わかりやすい例で言うと、噂を信じてしまう、噂で印象を持ってしまう、他者の評価をそのまま受け止めてしまうといったことはあまりポジティブではないが、やってしまいがちだと思う。

もちろん、例えば噂には噂の根拠があって、そこにはなにかしらの問題があるはずだが、自分の眼、自分の印象というものを信じた方が、他者との関わりという点では好ましいのではないかと僕は思っている。

 

ありのままに見ることができなかったり、たやすく他人の言葉に左右されてしまったりするのは、ある意味で適応だと思う。他人と同じものを見ているという「気分」が、人と世界を繋いでいる。逆に、見ているものが異なると主張すれば、少なくともその人とは世界を断絶しているというメッセージになるだろう。

世界は情報に溢れて、より適応を求める方向に落下しているように思う。例えば、多様性やマイノリティに対する主張も、アンチテーゼであるとは思うけれど、どちらかというと均質化を求めている。多様性を認めろ、という強制は冷静に考えるとナンセンスだが、人は他人の眼で、自分の眼をアップデートしていかなくてはいけないということかもしれない。

 

「自分の眼」のどこまでが自分の眼で、どこからが他人の眼なのか。他人の眼を気にしているのも、「自分の眼」なのか。

あんまり考えすぎると病気になりそうなので、適当なところで止めておいた方が良さそうだけれど、なんとなくの直観だったり、好きとか嫌いとかいう感覚だったりというものを忘れないことは大切かなと思う。