アート、もしくは嘘

「形にした瞬間に、圧倒的に嘘。絶対に嘘です」と、あるアーティストの方は言った。

アーティストは、その人が内部に描いている何かを形にするのだろうと思う。しかし、世界に生み出され、現実に晒された形は、「そのままの姿」ではない。

 

地球の重力、汚れていく部屋や建物、街、…。人々の称賛、批判、中傷、…。そういったものに晒されて、それはそのままの姿で世界に存在することはなくて、嘘になる。

嘘を生み出しながら、嘘の中に「そのままの姿」を少し見いだしてもらえれば良いのかもしれない。それは哀しいことである気もするけれど、現実とはそういうものだし、それが美しいようにも思う。

 

アートに限らず、あらゆる営みが嘘であると思う。語弊はあるかもしれないが、僕は「嘘」を生きている。ただ、生きている以上、その「嘘」は真実でもある。それ以外にどうしようもないのだから、それはやはり真実なわけだ。

大切なことは、精一杯に嘘をつくことだと思う。「嘘だな…。哀しいな…。」と自覚しながらも、嘘は嘘で、精一杯についていくことが大切だと思う。仕事をすることも、家庭を営むことも、たぶん少しだけ、真実と繋がっている。

 

自分が真実なのか、世界が真実なのかはわからない。おそらく、どっちもどっちだろうとは思う。ただ、接点はあって、接続はしている。僕はそう信じたいと思っているのだと思う。

袂別

袂(たもと)を分かつ、もしくは袂別(べいべつ)という表現がある。

論語の子罕第九に、共に学ぶことはできても、共に歩いていくことができるとは限らないという。さらに、共に歩けたとしても、共にひとところに立てるとは限らない。共に立てたとしても、共に権ることができるとは限らないという。

 

否応なく、人は袂を分かちながら生きていくと思う。むしろ、袂を連ねているというのが幻想なのかもしれない。

人は共に学び、共に歩くと安心してしまう。期待してしまう。しかし、共に立ち、共に権る。変化しながら、同じものを見つめていくというのは容易くないどころか、極めて困難だと思う。

 

何は共有していて、何は共有していないのか。それを見定めることが重要だと思う。他者と自己は少なくとも同一ではないのだから、どう似ているのか。どう違うのか。そこはなるべくシンプルに見定めていくことが調和のためには必要だと思う。

 

言うまでもなく、最初から袂は分たれている。彼の袂と、我の袂が同じであることはない。しかし、共に歩くことができる時もあるだろう。特定の問題については、あるいは権ることもできるかもしれない。最初から分かたれているのだから離れる時は離れれば良いし、ごく稀には、また連なることもあるかもしれない。

そのあたりが現実的なラインなのではないかと思う。僕には、僕が見ているものがあるのだから。

差異と認識

人間は、というより人間の脳は差異・差分によって物事を認識しているという。「一点を見つめる」という表現はあるが、完全に眼球運動を止めた状態で、周囲の環境の光も変化しない場合は、徐々に脳は像を結べなくなり、真っ暗になる(そう認識する)らしい。

実際にやったことはないので、本当かどうかはわからないが、なんとなくそんな気がする。

 

人間が何かに取り組み続けるためには、この「差異」が大切だと思う。一方で、何かに取り組み続けるには安定した状態が必要である。身体的、精神的、もしくは金銭的などの理由で不安定すぎると、その状態は長くは続かない。

人生に飽く、というのは、当たり前(不安定すぎない環境)の中に何かを見出すことができなくなることではないかと思う。生理として眼球が運動を止めることはないのだろうが、心がそういう作用を失い始めると「飽く」のではないかと思う。

 

意図して変化を求めていく、というのもあるにはある。いろいろなコミュニティに参加したり、就職・転職や結婚・出産、ときには自暴自棄。ただ、そういったものに本質を求めていくのは、僕にとっては少し違うように感じる。

人間が離れることができないものは自己であると思う。自己に対する発見をし続けていけるのかは、少なくとも大切な問いの1つなのではないかと思う。

問題解決、あるいは対話の可能性

そもそも、問題解決は可能な行為なのか。これは重要な問いなのではないかと思う。

 

質問をして、あるいは質問をされて、答えるという行為を考えてみた時に、質問に対して答えているという対話を見ることは案外に少ない。質問者の意図と、回答者の意図は大抵ずれているし、ほとんど対話として成立していないことも多い。

質問と回答のやり取りは、一方もしくは双方に「問題解決」の意志が存在しない時にしか成立しないように思う。問題を解決したい場合は、それぞれは自身の問題に対して取り組んでいるので、関係のないやり取りを、それぞれの意味付けによって為しているに過ぎないということが多い。

 

双方が問題解決をしようとする場合、そこには対立が発生しているので、結局は問題解決にフォーカスは当たらず、いずれの問題が正しいのかというやり取りになってしまう。

一方、対話を行うためには双方が意図を持ち過ぎないことが必要となるため、問題解決の色合いが薄くなってしまう。

 

問題解決を成立させるためには、非常にクレーバーな対話か、もしくは理想的なリーダーシップが必要だろうと思う。人でも対話でもなく、問題に、それも共通の問題にフォーカスを当てていくのは、それほど簡単ではないと感じる。

環境

人にせよ、組織にせよ、内的に変化することは困難で、基本的には環境によって変わるものだと思う。同時に、変化というのは基本的には不快なので、変化それ自身に目を向けると反応を誤りやすいと感じる。

 

一義的には「変化は環境に拠っている」と考えると、変化それ自身に目を向けるのではなく、それを促そうとしている環境に目を向けることが大切だと思う。

変化したいのであれば、環境をどう構成するのか。変化に違和感が強いのであれば、その変化は何によってもたらされようとしているのか。もしくは、もたらせようとしているのか。

 

自分であったり、組織であったりが、どういう情報に晒されようとしているのかであったり、自らを晒そうとしているのかであったりを認識し、それによって当然期待される変化がどういうものであるのかを認識することが大切だと思う。

その中で、自分自身はどういうことを学習して物事への理解を深めたり、身を投じたり、あるいは引いたりということを試みていくのかということを、たまにでも良いので考えることが大切だと思う。

 

少なくとも僕のような凡人の経験することは、基本的には世の中にあり触れた物事ばかりだと思う。その意識を持つこと、一般的な現象として自分自身を理解することは大切なのではないかと思っている。

サイバネティクス

情報化、デジタル化と言われて久しいが、20世紀の中葉に情報・通信の理論化が始まった時点で、それが極限まで突き詰められていくことは予感されていたとも言える。

理論を推し進めることは、近代、そして科学の宿命だと思う。

 

クロード・シャノンの「通信の数学的理論 (ちくま学芸文庫)」は、あらゆる情報がビットで表現できること、それらの情報を(ノイズが混入する回路においても)通信によって伝達できることを示し、情報通信の時代を幕開けたとも言われる。

あらゆる情報がビットで表現できるということから、生物と機械の境界は無くなり、問題は通信と制御へと移っていく。情報空間と制御システムという観点で、あらゆるものが捉え直されていく。

 

ノーバート・ウィーナーは、通信と制御の問題によって規定される領域を「サイバネティクス」と呼び、マルティン・ハイデッガーは、哲学が解体された後に哲学に変わる学問はサイバネティクスであるとシュピーゲル会談において答えている。

中国が掲げる「社会主義の現代化」は、欧米諸国では「デジタル・レーニン主義」という呼称でも呼ばれるが、通信と制御によって社会システムをアップデートする試みとして、サイバネティクス的だと感じる。

 

人間の生き方も、通信と制御によってコントロールされる、もしくはコントロールできる部分がそれなりにあるのだろうなと思う。余計な情報に触れない、というだけで、日々がシンプルになるように。

 

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回路

簡単に言えば、「慣れ」ということなのだろうと思うが、人間の身体であったり、思考であったりは環境に適応して硬直しやすいものだと思う。

神経回路に限らず、物事はエネルギーがもっとも低い状態で平衡しようとする傾向があるので、「硬直」はとても合理的で、いちいち余計な処理をせずに物事を進めるという観点で必要な反応だろうと思う。特定の回路以外に信号が漏れ出さない方が話が早い。

 

ただ、いざ変化が必要となると、「硬直」の性質を知っていないと困惑しやすい。人間はほとんど何も意識せずに日々を生きている。例えば、雑音であったり、ちょっとした床の段差であったりは、慣れてしまうと処理から落としたり、わざわざ外的環境から情報を得ずに乗り越えたりしているのだと思う。

旅行先であったり、自らの意志で行う引越しであれば、意識的に変化を処理するが、オフィス移転などで引越し後に戸惑いが発生しやすいのは、「慣れ」に依る面も一定あるのだろうと思う。

 

親離れ・子離れ、友人や恋人との別れについても同様で、意識としてはもう割り切っていても、(例えば、特定のシナプス周辺の絶縁体が発達しているといったように)身体・神経の反応は物理的に制御されているので、悲しかったり、寂しかったりする。

身体にせよ、神経にせよ、硬直性や可塑性というのは病のような側面もある。時間が癒してくれる、というのは言い得て妙だと思う。

在り方としての技術

現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出されうるようなものを引き渡せという要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。

(中略)いたる所で求められている[bestellt sein]のは、即座に使えるように[auf der Stelle]手許にあること[zur Stelle stehen]、しかもそれ自体さらなる用立て[Bestellen]のために用立てられうるようにあることである。

(中略)われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける — 集-立[Ge-stell]と。

(マルティン・ハイデッガー 『技術への問い』(関口浩訳)より抜粋)

ハイデッガーの技術論は、技術の善悪に関する議論を一切せず、技術の存在の意味を問うている。

技術は、「どう便利であるか」と存在を理解しようとする在り方であるという。あらゆる存在の中に「便利さ」を見出そうとする理解の様式、そのような在り方が技術であるという。

 

技術にもし悪があるのであれば、その悪をどう便利にするか、それをいかに効率的に確実に推し進めるのか、も技術の意味になる。技術の善も、技術の悪も、技術的に理解され、技術的に改変(改善、もしくは改悪)される。

そこに技術への問いが立ち現れてくる、ということではないかと思う。

 

技術は再帰的に技術を求める。それは、近代が再帰的に近代化するという考え方と似ているように思う。そこに技術の秘密であったり、近代の秘密があるように思う。

 

効率的に技術を使うことはもちろん、技術から離れることも技術的に行われてしまうのだとすれば、技術的でない在り方とは何だろうかと思う。

その場所に人が立ち戻れるかは別にして、なんとなく、全体をそのままぐわしと掴むような、そんな感覚なのかなと思う。

 

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都市計画への関心

「ニューヨークの摩天楼は小さすぎる。十分な大きさではない(とはじめて見たル・コルビュジエ氏は語る)。大きく、そしてもっと間をあけなければならない」。(『伽藍が白かったとき』より)

(磯崎新 「ル・コルビュジエに関する七つの断章」より抜粋)

東京、ニューヨーク、長安、平安京…。いずれにせよ、都市を計画するというのは興味深い仕事だと思う。

 

これは多分に感覚的にしか理解していないのだが、都市に限らず、それぞれの場所には在り方に対する思想が必要だと思う。また、それぞれの場所には、それぞれの場所のテーマと「得るべきもの」があると思う。

磯崎新の「ル・コルビュジエの仕事」の中で、「うっとおしく、とざされたヨーロッパの都市」が獲得すべき目標としたものが緑と太陽と空間であったのに対して、インドのシャンディガール(ル・コルビュジエの都市計画として有名、チャンディーガルとも)では事態はまったく逆に、緑と太陽と空間は制禦されるべきものであったと考察されている。

 

「在り方」については、ル・コルビュジエは有機体、生命体をイメージしているように思う。モデュロールとは、黄金比と人間の寸法が支配するフラクタルだと感じるし、都市機能を脳中枢、脊椎、循環系統などに分類して考える方法も興味深い。

ダイアグラム的な構成は長安や平安京に通じるところもある。人間は、いわば都市を巡る血液のようなものに当たるのだろう。

 

東京に限らないのかもしれないが、大きな都市は(良い悪いではなく)空を切り刻んでいるように思う。ニューヨークの摩天楼も、そういう側面があるのかもしれない。

高層ビルや高層マンションは、職場の集合、住居の集合というテーマに応えるために開発された手法だろう。集合した時に、職場や住居としての独立性や有機性をどう保つか。

 

本当かどうかは知らないが、ニューヨークの摩天楼は、他の都市に比べて細いらしい。それは、「管理職には個室を準備する」「個室には窓が必要である」という、働き方の要請によるものだという話を聞いたことがある。

体積が寸法に対して三乗で大きくなるのに対して、表面積は寸法に対して二乗になるから、細いビルをたくさん作る方が、その都市が持つ「窓のある個室」が多くなるという。本当のような、嘘のような話だと思うが、一理ある。そうだとすれば、確かに「ニューヨークの摩天楼は小さすぎる」のだろう。

 

都市設計(デザイン)という言葉もあるが、都市計画(プラン)の方が、なんとなくしっくり来る。都市は単体の構造物より寿命が長いこともあり、プランが必要だろうと思う。

古地図を眺めるという趣味が世の中にはあるが、そこには自然の計画があったりするのだろう。なかなか知的に面白い趣味なんだろうなと思ったりする。

麻痺と調和

人間に限らず、あらゆる動物がそうなのかもしれないが、少なくとも人間は麻痺していないと、とても生きていられないと思う。

麻痺というより、「知覚や感覚、感情の遮断」というくらいの方が正しいかもしれない。そもそも脳は、受信する情報のすべてを処理したりはしないのだから、もともと麻痺しているとも言える。

 

『論語』にある「矩を超えず」というのは、言うまでもなく非常に難しいことである。適切に受信し、適切に発信するということが、矩を超えないということだと思う。

「適切」というのがまた難しく、社会によって異なる。感受性が強い、というのは、受信する力そのものの話をしているケースもあるとは思うが、多くは受信する信号のピークのズレによって生じる問題のことを指している気がする。

 

受発信はバランスが重要で、その瞬間に所属している社会とのズレの問題以上に、媒体する装置である人間が壊れないようにするのが大切だと思う。

人間というのは変化するのは苦手だが、壊れる時は思ったより簡単に壊れてしまうことがある。壊れてしまったら、元も子もないように思う。

 

自身にも、社会にも、自然にも、調和というものがあると思う。不協和音にならない程度に、それぞれのハーモニーというものを感じることは大切だろう。

一方で、調和しない旋律は調和しないのだから、そういうものだと割り切って、距離を取ることも重要だと思う。そういう場合は、距離を取ることが調和的なのだと思う。