本を読む

何を以て「本を読んだ」とするかは、なかなか難しいと思う。「内容の理解」という定義は、そもそも「内容」と「理解」の定義が困難な一方、「文字を目で追う」ことを以て読んだと主張することは困難に感じる。

 

東洋に「素読」という文化があるのは、「ただ読み、覚える」ことに効用があるからだと思う。覚えておけば思い出せる。そもそも素読で扱われるような文章は、人生をかけて学んでいくような類のものも多い。人生の様々な場面で思い出し、学び直せるように記憶しておくというのは意味があると思う。

覚えたかどうか、は測定可能なので、「本を読んだ」という行為の定義として成立するのも良いことだと思う。

 

辞書のように都度、調べることを目的とした本は別にして、多くの本においては、それを読んだ前後で観方や考え方が更新されるような読み方ができれば、一応「読んだ」と言えるのではないかと思う。

別にすべてのページをめくる必要はないし、どこまで深く読めたかも問う必要はあまり無くて、その本を通じて、何かを感じられれば良いと思う。古くから言われるように、「本を撫でる」ということもあるだろう。

 

理想的には、その本を通じた自らの変化が好ましく、日々の営みを新たにしていくようなものだと良いなと思う。だからこそ、自分でとって良い本は、何度でも「読む」ことができるのだと思う。

組織と人と

あまりにも陳腐な話なのだが、「組織に合わせて、人を配するか」「人に合わせて、組織を配するか」という考え方があるとする。組織とミッションが先にあって、それに人を当てはめることを通じて、人を活かすか。人を活かすために組織やそのミッションを調整するか。

当然、どちらか一方では成立せず、双方の視点からチューニングをかけていく必要があると思うのだが、いずれを主軸に置くかはスタンスとして持っておいた方が良いように思う。

 

当たり前だけれど、組織から見ると「組織に合わせる」ということになる。人から見ると「人に合わせる」ということになる。組織には人が必要(というよりも、人が集まったものが組織)である一方で、人が1人でできることは本当に限られて、寂しさを紛らわせるという効用も含めて、人は組織を必要とすると思う。

一体であるにも関わらず、そこにコンフリクトがあるというのは面白いと思う。ただ、そういった構造は1人の個人の中にも存在するのだから、組織に存在することを不思議に思う必要はないだろう。

 

個人として人間がそれをどう解消しているかというと、「なんとなく」だと思う。体調が悪いと休もうと思うが、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりもする。夜更かしもしてしまう。

友人や恋人がいるとして、一緒にいたいと思う気持ちと、面倒だと思う気持ちもある。そういったものを、僕たちは「なんとなく」やり過ごしている。

 

僕が僕を考えることと、僕が組織を考えることの違いはパッと思いつくところで3点。1つ目は「僕はなんとなく僕に対して主体性を持っている気になっている」こと。2つ目は「僕は僕から離れらない気がしているが、組織からは離れられる気がしている」ということ。3つ目は、「僕の目的は曖昧な気がするが、組織の目的は明確に決まっているような、そうあるべきな気がする」こと。

ただ、それが構造を覆すほどの違いを持っているのかはよくわかならないなと思う。「なんとなく」でも、昨日より今日、一歩くらい踏み出している。そんな感じのような気もする。

気持ちよさ

もう10年近く前になるが、ある人に「あなたが言う、よい生き方とはなんですか?」と問われた。「嘘をつくことは悪いことですか?たくさんの異性と付き合うことは悪いことですか?」、「古典に書いてあることが、よい生き方ですか?」と。

いわゆる会社員を辞めて、「よい生き方を知りたい」と漠然と思っていた僕はその問いで、もう少し当たり前の会社員をしようと思った。

 

いろいろな考え、解釈があると思うが、今はなんとなく「気持ちよさ」が大切なのではないかと思う。「気持ちよい、とは何か?」と突き詰めていくには、まだまだ時間が必要そうだが、少なくとも、僕が気持ちよい、気分がよいと感じることはある。

シンプルに言うと、気持ちのよい生き方、気分のよい生き方、というのがいいなと思う。

 

世界がものすごく気持ちのよい場所であれば、僕はきっと逆のことを思うかもしれない。SFなどにある、強制的な精神の安定はやはりディストピア的だと感じる。

ただ、今のところ、世界には気分の悪いこともある。まず、自分自身に気分が悪いことがあるし、思うに任せないことも多い。それは幸せなことだと思う。

 

答えが1つでないことも、幸せなことだと思う。僕には僕なりに、彼には彼なりに、工夫すべきことがたくさんある。どう工夫するかはそれぞれだと思う。ただ、どこにいても、何をしていても、気持ちよくあれると良いなと思う。

どこにいても、何をしていても、気持ちよい人というのは素敵だなと思う。

規範

周囲に規範があった方が幸せか、無い方が幸せか、というのは状況に依ると思う。規範の強さにも依っていて、非常に強い規範に対して屈しないということは人間には難しいので、それが救いになることもあれば、規範が人を押し潰すということもある。

 

強すぎる規範は人を潰したり、少なくとも思考力を奪う。一方で、規範がなければ不安が強く、人は生きていけないように思う。個人的には、強すぎない規範が人にとって、組織にとって、良いのではないかと思う。

例えば、僕が中学生の頃、自身の生に対する不安を紛らわせることができた1つの側面は、「とりあえず、学校の勉強はある」ということだったと思う。意味はわからなくても、そこにある。一方で、いわゆる進学校に通っていたら、勉強という規範が強すぎて、それに身を委ねてしまっていたかもしれないと思う。勉強は規範であり、僕の人生それ自体ではないのに、規範に人生を乗っ取られてしまう。

 

規範には一定の合理性がある。ある意味で、サボらせてくれる。ただ、サボりすぎると、何が最初にあったのかを見失ってしまうと思う。

合理的なところは利用して、自分自身の問題への問いや思考を深める。そういう規範が理想的なのではないかなと思ったりする。そういう風に規範を選べるのなら幸せなのかもしれないが、規範を選択するということが、人間の理性・知性において可能なのかは、それなりに難しい問題であるとも思う。

アート、もしくは嘘

「形にした瞬間に、圧倒的に嘘。絶対に嘘です」と、あるアーティストの方は言った。

アーティストは、その人が内部に描いている何かを形にするのだろうと思う。しかし、世界に生み出され、現実に晒された形は、「そのままの姿」ではない。

 

地球の重力、汚れていく部屋や建物、街、…。人々の称賛、批判、中傷、…。そういったものに晒されて、それはそのままの姿で世界に存在することはなくて、嘘になる。

嘘を生み出しながら、嘘の中に「そのままの姿」を少し見いだしてもらえれば良いのかもしれない。それは哀しいことである気もするけれど、現実とはそういうものだし、それが美しいようにも思う。

 

アートに限らず、あらゆる営みが嘘であると思う。語弊はあるかもしれないが、僕は「嘘」を生きている。ただ、生きている以上、その「嘘」は真実でもある。それ以外にどうしようもないのだから、それはやはり真実なわけだ。

大切なことは、精一杯に嘘をつくことだと思う。「嘘だな…。哀しいな…。」と自覚しながらも、嘘は嘘で、精一杯についていくことが大切だと思う。仕事をすることも、家庭を営むことも、たぶん少しだけ、真実と繋がっている。

 

自分が真実なのか、世界が真実なのかはわからない。おそらく、どっちもどっちだろうとは思う。ただ、接点はあって、接続はしている。僕はそう信じたいと思っているのだと思う。

袂別

袂(たもと)を分かつ、もしくは袂別(べいべつ)という表現がある。

論語の子罕第九に、共に学ぶことはできても、共に歩いていくことができるとは限らないという。さらに、共に歩けたとしても、共にひとところに立てるとは限らない。共に立てたとしても、共に権ることができるとは限らないという。

 

否応なく、人は袂を分かちながら生きていくと思う。むしろ、袂を連ねているというのが幻想なのかもしれない。

人は共に学び、共に歩くと安心してしまう。期待してしまう。しかし、共に立ち、共に権る。変化しながら、同じものを見つめていくというのは容易くないどころか、極めて困難だと思う。

 

何は共有していて、何は共有していないのか。それを見定めることが重要だと思う。他者と自己は少なくとも同一ではないのだから、どう似ているのか。どう違うのか。そこはなるべくシンプルに見定めていくことが調和のためには必要だと思う。

 

言うまでもなく、最初から袂は分たれている。彼の袂と、我の袂が同じであることはない。しかし、共に歩くことができる時もあるだろう。特定の問題については、あるいは権ることもできるかもしれない。最初から分かたれているのだから離れる時は離れれば良いし、ごく稀には、また連なることもあるかもしれない。

そのあたりが現実的なラインなのではないかと思う。僕には、僕が見ているものがあるのだから。

差異と認識

人間は、というより人間の脳は差異・差分によって物事を認識しているという。「一点を見つめる」という表現はあるが、完全に眼球運動を止めた状態で、周囲の環境の光も変化しない場合は、徐々に脳は像を結べなくなり、真っ暗になる(そう認識する)らしい。

実際にやったことはないので、本当かどうかはわからないが、なんとなくそんな気がする。

 

人間が何かに取り組み続けるためには、この「差異」が大切だと思う。一方で、何かに取り組み続けるには安定した状態が必要である。身体的、精神的、もしくは金銭的などの理由で不安定すぎると、その状態は長くは続かない。

人生に飽く、というのは、当たり前(不安定すぎない環境)の中に何かを見出すことができなくなることではないかと思う。生理として眼球が運動を止めることはないのだろうが、心がそういう作用を失い始めると「飽く」のではないかと思う。

 

意図して変化を求めていく、というのもあるにはある。いろいろなコミュニティに参加したり、就職・転職や結婚・出産、ときには自暴自棄。ただ、そういったものに本質を求めていくのは、僕にとっては少し違うように感じる。

人間が離れることができないものは自己であると思う。自己に対する発見をし続けていけるのかは、少なくとも大切な問いの1つなのではないかと思う。

問題解決、あるいは対話の可能性

そもそも、問題解決は可能な行為なのか。これは重要な問いなのではないかと思う。

 

質問をして、あるいは質問をされて、答えるという行為を考えてみた時に、質問に対して答えているという対話を見ることは案外に少ない。質問者の意図と、回答者の意図は大抵ずれているし、ほとんど対話として成立していないことも多い。

質問と回答のやり取りは、一方もしくは双方に「問題解決」の意志が存在しない時にしか成立しないように思う。問題を解決したい場合は、それぞれは自身の問題に対して取り組んでいるので、関係のないやり取りを、それぞれの意味付けによって為しているに過ぎないということが多い。

 

双方が問題解決をしようとする場合、そこには対立が発生しているので、結局は問題解決にフォーカスは当たらず、いずれの問題が正しいのかというやり取りになってしまう。

一方、対話を行うためには双方が意図を持ち過ぎないことが必要となるため、問題解決の色合いが薄くなってしまう。

 

問題解決を成立させるためには、非常にクレーバーな対話か、もしくは理想的なリーダーシップが必要だろうと思う。人でも対話でもなく、問題に、それも共通の問題にフォーカスを当てていくのは、それほど簡単ではないと感じる。

環境

人にせよ、組織にせよ、内的に変化することは困難で、基本的には環境によって変わるものだと思う。同時に、変化というのは基本的には不快なので、変化それ自身に目を向けると反応を誤りやすいと感じる。

 

一義的には「変化は環境に拠っている」と考えると、変化それ自身に目を向けるのではなく、それを促そうとしている環境に目を向けることが大切だと思う。

変化したいのであれば、環境をどう構成するのか。変化に違和感が強いのであれば、その変化は何によってもたらされようとしているのか。もしくは、もたらせようとしているのか。

 

自分であったり、組織であったりが、どういう情報に晒されようとしているのかであったり、自らを晒そうとしているのかであったりを認識し、それによって当然期待される変化がどういうものであるのかを認識することが大切だと思う。

その中で、自分自身はどういうことを学習して物事への理解を深めたり、身を投じたり、あるいは引いたりということを試みていくのかということを、たまにでも良いので考えることが大切だと思う。

 

少なくとも僕のような凡人の経験することは、基本的には世の中にあり触れた物事ばかりだと思う。その意識を持つこと、一般的な現象として自分自身を理解することは大切なのではないかと思っている。

サイバネティクス

情報化、デジタル化と言われて久しいが、20世紀の中葉に情報・通信の理論化が始まった時点で、それが極限まで突き詰められていくことは予感されていたとも言える。

理論を推し進めることは、近代、そして科学の宿命だと思う。

 

クロード・シャノンの「通信の数学的理論 (ちくま学芸文庫)」は、あらゆる情報がビットで表現できること、それらの情報を(ノイズが混入する回路においても)通信によって伝達できることを示し、情報通信の時代を幕開けたとも言われる。

あらゆる情報がビットで表現できるということから、生物と機械の境界は無くなり、問題は通信と制御へと移っていく。情報空間と制御システムという観点で、あらゆるものが捉え直されていく。

 

ノーバート・ウィーナーは、通信と制御の問題によって規定される領域を「サイバネティクス」と呼び、マルティン・ハイデッガーは、哲学が解体された後に哲学に変わる学問はサイバネティクスであるとシュピーゲル会談において答えている。

中国が掲げる「社会主義の現代化」は、欧米諸国では「デジタル・レーニン主義」という呼称でも呼ばれるが、通信と制御によって社会システムをアップデートする試みとして、サイバネティクス的だと感じる。

 

人間の生き方も、通信と制御によってコントロールされる、もしくはコントロールできる部分がそれなりにあるのだろうなと思う。余計な情報に触れない、というだけで、日々がシンプルになるように。

 

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)
ノーバート・ウィーナー
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