RPG

「RPGでどんなに強くなっても、現実の世界で強くなったわけではない。それに気付いた時から、ゲームに取り組むのが怖くなった。」

現実と空想の境界は、普通に思う以上に曖昧だと思う。ライトノベルの世界には、「転生トラック」というものがあるらしい。トラックに引かれて、違う自分が始まる。それは現実のすぐ隣に空想を願う心のように思う。

 

高校生の時に演劇に惹かれて、数ヶ月の間、演劇部に所属した。自分が役割(ロール)であるというのは、安心できることだと思う。

何かを演じることができるのであれば、どんなものでも演じられる。だから、何者かであるということは、何者でもなくても良いということだと思う。少なくとも、そんな風に僕は思っていたのだと思う。

 

実際には、何かを演じることができるというのは幻想で、演じようとすればするほど、その人の本性が明らかになると感じる。逆に、もし本当に演じてしまえるのなら、何者でもなくなってしまう。人格は崩壊してしまうだろう。

それがどうしてなのかは、はっきりとはわからないが、幻想を望む心はその人の本性をきれいに映し出してしまうように思う。少しずつで良いので、自身に没頭するように生きていけるようになると良いなと思う。

スタンス

極端は好ましくないという前提の下で、お金は割と大切だと僕は思っている。非常に扱いやすいのが良いところだと思う。

詳細な議論は尽くしきれないので置いておくとして、お金があれば一定は納得感がある。また、「人格で解決」したり、「人間関係で解決」するのは難しい気がするが、「金銭で解決」というのはそこまでの技術を必要としない感じがする。たぶん、高度に代替可能であること、非人格的であることが関係しているのだと思う。

 

人間が如何なる存在か。何に拠って動くのか。「お金で動く」と考えるのは、言い換えると人間の性質の核に「利」を置く考え方だと思う。

人間を非常に自然的な存在(玄徳)と捉えるといわゆる無知の治、「無」ということになる。そこから人間として磨くべき人格(明徳)みたいなものを見出すと「徳」。さらに、社会の形成に紐付けて調和を愛するようになると「礼」。社会の調和にルールの必要性を見出すと「法」となる。もちろん、他にもいろいろな考え方があるだろう。

 

なるべく治めないというのも、徳(人格)によって治めるというのも、礼(調和)によって治めるというのも、法によって治めるというのも、利によって治めるというのも、スタンスの問題、もっと言うと好みの問題だと思う。

利や法はわかりやすい一方、少し概念化され過ぎているので、「お金と幸せは相関しない」みたいな議論も起きやすい印象がある。人間はなかなか厳密には生きられないので、スタンスの1つとして、有用性を理解しておくのが良いのかなと個人的には思う。

権力

権力は、それを行使する者にとって毒性を有する。これは歴史の常識であると、London School of Economics and Political Scienceで政治科学部長を務めたラスキは『カール・マルクス』において指摘している。

It is a commonplace of history that power is poisonous to those who exercise it; there is no reason to assume that the Marxian dictator will in this respect be different from other men.
(“Karl Marx”, Harold J. Laski, 1921)

 

権力は「暴力」と混同されやすいが、システム機能として権力の純粋な性質を検討することは重要だと思う。権力はときに暴力的だが、暴力ではない。むしろ、権力を行使できないから暴力を用いると見た方が自然だと感じる。

権力は「いつでもあらゆる箇所において行使しうるもの」ではないというヴァレリーの指摘は、本質的だと思う。「もしある権力が常に、また任意の時機に、その勢力範囲のあらゆる箇所においてその実力を発揮することを要せられたならば、その各箇所における実力は零に近い」。

 

権力を行使できる時機、および箇所は実は非常に限定されている。権力を「預金」みたいなものだと考えると、その残高は潤沢ではないのだろう。

権力においては、行使できる/すべき時機と箇所を見定めることが肝要であると思う。すべきでない時機・箇所に行使すると、いとも簡単に破産に追い込まれかねない。

生成変化とデザイン

アンリ・ベルグソンの『時間観念の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』の中に、「子どもが大人になる」という命題が取り上げられている箇所がある。この命題は、現実においては極めて当然に見える。確かに、子どもは大人になるように思う。

しかし、精確な論理という点では不可能な命題となる。論理は「子ども」を精確に、完璧に完成された子どもとして定義する。同様に「大人」も完璧に完成された大人である。論理がまったく譲歩せず、完成し静止した「子ども」「大人」という実在から出発すると、論理的な移行は不可能なわけだ。

 

「子どもは大人になるものである」とすれば、「子ども」は完成された実在ではなく、「決してすっかり全部子どもということはない子ども」の「決してすっかり全部大人ということはない大人」への生成変化が絶えず起こっているということになる。

そんなことは当たり前じゃないか、と思うかもしれない。しかし、人間というのは思った以上に静止した概念に縛られている。

 

葉っぱの絵を描く際に、「緑色で描いてはいけない」という話がある。茶色であったり、黄色であったり、赤色であったりで描き始めなさい、と。

落葉樹のような植物における「緑色の葉っぱが茶色になる」という命題について、現実として大きな違和感を抱く人はおそらく少ないのではないかと思う。葉っぱは枯れると茶色になって、落ち葉として樹々から落ちていく。つまり、「緑色の葉っぱ」は絶えず「茶色の葉っぱ」へと生成変化しており、その内部に茶色がないとおかしいというわけである。だから、「よく見て描きなさい」と。

 

デザイン行為は、対象を静止させようとする傾向がある。止まっていないと、要素を扱いづらいし、デザインを完成させることが難しい。しかし、本来は静止していないものを静止させようとしたり、デザインを完成させようとすることは、かなり矛盾を含んでいる。

茶道にはまったく詳しくないが、千利休は日常使いの茶碗を好んだとされる。焼かれた姿よりも、使われる姿の中に美しさを見い出したということではないだろうかと感じる。生活という生成変化を、デザインに取り入れようとしているように感じる。

 

いわゆるアートにしても、戦略であったり、サービスであったりのデザインにしても、ある瞬間に捉えたものから出発すると思う。しかし、捉えた瞬間は次の瞬間には「今」ではない。

普遍的なものに魅力を感じるのも、世界や現象が絶えず生成変化していることを感じているからだと思う。普遍性と美しさの関係はそれぞれの好みだと思うが、少なくとも生成変化とデザインが密接に関係したものであることは真実に近いのではないかと思う。

かなしさ

当たり前の話だけれど、人間はそれぞれに「かなしさ」を持っていると思う。そうであるにも関わらず、日々を過ごしていることはすごいことだなと思う。

当たり前のように笑顔で過ごしている人の「かなしさ」に触れると、それこそ感動を覚える。僕にはとても出来そうにないなと思う。

 

人それぞれだから、「かなしさ」の度合いを測ったり、比べたりすることはできないけれど、それを有していることを感じさせる人と、感じさせない人がいる。

感じさせないことは、本当にすごいと思う。なんて強いのだろう、なんて美しいのだろう、と。少なくとも、僕はそんな風に感じる。

 

何かありそう、とすら感じさせない美しさは、天が与えた才能と呼んでも良いくらいの力を持っていると思う。話をしていると、こちらまでなんとなく洗われる感じがする人がいると、僕はなんとなく思っている。

生きているといろいろあるから、もちろん愚痴が出ることもあるだろう。関係性にもよると思う。掘り下げていけば、美しくないものも見えてくるはずだろう。

 

相手との距離感にも大いに依存していて、仲良くなると案外、嫌なやつかもしれない。ただ、そういうことはここではどうでもよくて、そういう美しさ、清らかさはあるよなと思う。

まあ、単純にその人のことを好きとか、嫌いとかというだけの話なのかもしれないのだけれど…。

解決の源泉 – 学習を可能にするもの

人間であったり、機械であったりにおいて、学習を可能にするのは「中間イメージの存在」であると言われる。中間イメージの在り方は人間と機械で異なるのだろうと思うが、中間イメージが知覚のグループ化や一般化を可能にし、ある認識に基づいた行動(実際的な解決行為)を導く。その全体をなんとなく「学習」と呼ぶのだと思う。

例えば、「ネコ」というイメージは我々が目にするネコそのものではなく、ネコに基づいた(おそらくは単純化された)中間イメージで脳もしくは機械の中に格納されており、それとの照合によってネコと判じられる。この中間イメージをどう構成していくかが、学習という行為と関連している。

 

飛躍的に進歩した自動翻訳の機械学習の1つにおいては、(例えば日本語から英語への翻訳だとすると)まずインプットされた日本語を中間イメージによって英語に翻訳する。そうして翻訳されたアウトプット(英語)を例えばGoogle翻訳で再度、日本語に戻す。

最初の日本語と最後の日本語の意味的な距離をレーベンシュタイン距離などのアルゴリズムを組み合わせて評価し、その距離を最小化する方向へ中間イメージを調整していくと「学習」が発生する。

 

専門家ではないので誤っている部分もあるかと思うが、概念的にはおおよそこのような感じのことが為されているのだと思う。注目すべきなのは、知覚のみから中間イメージの構成および調整を行うことができないことである。

知覚のみから中間イメージを構成しようと思うと、知覚のグループ化、さらには一般化を行う必要がある。しかし、中間イメージを可能にしているのは、意味の距離を測ること、つまり「意味を伝えようとする」という行動であって、知覚ではない。行動が存在しないと、知覚はグループ化や一般化のとっかかりを得ることが出来ず、すべてを別の事象として扱わざるを得ないだろうと思う。

 

問題解決においては、一定においては結果がすべてだと思う。解決できたか、できなかったか、である。もちろん、解決の度合いはあるが、解決できたかどうかは問題解決という行為を支える重要な根幹だろうと思う。

解決できていればおそらくは正しさが含まれているし、解決できなければ何かが間違っている。そうと解釈するしかない。だからこそ、問題自体が間違っていると悲惨なことになる。

 

解決とは、行動である。行動によってしか、問題解決は前に進まないと思う。

解決できない場合、つまり行動が思うように進まない場合に、知覚をねじ曲げようとするのは、人間の厄介なところである。中間イメージ(認識)ですらなく、知覚(世界それ自体)をねじ曲げてしまうと、話がややこしくて進みづらくなってしまう。繰り返しになるが、解決を可能にするものは行動しかない。行動はイエスか、ノーである。

 

本題である問題解決とはずれてしまうが、中間イメージの実態がよくわからないものであったり、評価が困難なものであったりは、機械より人間が担った方が合理的なのかもしれないと思う。

一方で、評価のみが重要な事柄については機械に任せた方が合理的なように思う。

本を読む

何を以て「本を読んだ」とするかは、なかなか難しいと思う。「内容の理解」という定義は、そもそも「内容」と「理解」の定義が困難な一方、「文字を目で追う」ことを以て読んだと主張することは困難に感じる。

 

東洋に「素読」という文化があるのは、「ただ読み、覚える」ことに効用があるからだと思う。覚えておけば思い出せる。そもそも素読で扱われるような文章は、人生をかけて学んでいくような類のものも多い。人生の様々な場面で思い出し、学び直せるように記憶しておくというのは意味があると思う。

覚えたかどうか、は測定可能なので、「本を読んだ」という行為の定義として成立するのも良いことだと思う。

 

辞書のように都度、調べることを目的とした本は別にして、多くの本においては、それを読んだ前後で観方や考え方が更新されるような読み方ができれば、一応「読んだ」と言えるのではないかと思う。

別にすべてのページをめくる必要はないし、どこまで深く読めたかも問う必要はあまり無くて、その本を通じて、何かを感じられれば良いと思う。古くから言われるように、「本を撫でる」ということもあるだろう。

 

理想的には、その本を通じた自らの変化が好ましく、日々の営みを新たにしていくようなものだと良いなと思う。だからこそ、自分でとって良い本は、何度でも「読む」ことができるのだと思う。

組織と人と

あまりにも陳腐な話なのだが、「組織に合わせて、人を配するか」「人に合わせて、組織を配するか」という考え方があるとする。組織とミッションが先にあって、それに人を当てはめることを通じて、人を活かすか。人を活かすために組織やそのミッションを調整するか。

当然、どちらか一方では成立せず、双方の視点からチューニングをかけていく必要があると思うのだが、いずれを主軸に置くかはスタンスとして持っておいた方が良いように思う。

 

当たり前だけれど、組織から見ると「組織に合わせる」ということになる。人から見ると「人に合わせる」ということになる。組織には人が必要(というよりも、人が集まったものが組織)である一方で、人が1人でできることは本当に限られて、寂しさを紛らわせるという効用も含めて、人は組織を必要とすると思う。

一体であるにも関わらず、そこにコンフリクトがあるというのは面白いと思う。ただ、そういった構造は1人の個人の中にも存在するのだから、組織に存在することを不思議に思う必要はないだろう。

 

個人として人間がそれをどう解消しているかというと、「なんとなく」だと思う。体調が悪いと休もうと思うが、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりもする。夜更かしもしてしまう。

友人や恋人がいるとして、一緒にいたいと思う気持ちと、面倒だと思う気持ちもある。そういったものを、僕たちは「なんとなく」やり過ごしている。

 

僕が僕を考えることと、僕が組織を考えることの違いはパッと思いつくところで3点。1つ目は「僕はなんとなく僕に対して主体性を持っている気になっている」こと。2つ目は「僕は僕から離れらない気がしているが、組織からは離れられる気がしている」ということ。3つ目は、「僕の目的は曖昧な気がするが、組織の目的は明確に決まっているような、そうあるべきな気がする」こと。

ただ、それが構造を覆すほどの違いを持っているのかはよくわかならないなと思う。「なんとなく」でも、昨日より今日、一歩くらい踏み出している。そんな感じのような気もする。

気持ちよさ

もう10年近く前になるが、ある人に「あなたが言う、よい生き方とはなんですか?」と問われた。「嘘をつくことは悪いことですか?たくさんの異性と付き合うことは悪いことですか?」、「古典に書いてあることが、よい生き方ですか?」と。

いわゆる会社員を辞めて、「よい生き方を知りたい」と漠然と思っていた僕はその問いで、もう少し当たり前の会社員をしようと思った。

 

いろいろな考え、解釈があると思うが、今はなんとなく「気持ちよさ」が大切なのではないかと思う。「気持ちよい、とは何か?」と突き詰めていくには、まだまだ時間が必要そうだが、少なくとも、僕が気持ちよい、気分がよいと感じることはある。

シンプルに言うと、気持ちのよい生き方、気分のよい生き方、というのがいいなと思う。

 

世界がものすごく気持ちのよい場所であれば、僕はきっと逆のことを思うかもしれない。SFなどにある、強制的な精神の安定はやはりディストピア的だと感じる。

ただ、今のところ、世界には気分の悪いこともある。まず、自分自身に気分が悪いことがあるし、思うに任せないことも多い。それは幸せなことだと思う。

 

答えが1つでないことも、幸せなことだと思う。僕には僕なりに、彼には彼なりに、工夫すべきことがたくさんある。どう工夫するかはそれぞれだと思う。ただ、どこにいても、何をしていても、気持ちよくあれると良いなと思う。

どこにいても、何をしていても、気持ちよい人というのは素敵だなと思う。

規範

周囲に規範があった方が幸せか、無い方が幸せか、というのは状況に依ると思う。規範の強さにも依っていて、非常に強い規範に対して屈しないということは人間には難しいので、それが救いになることもあれば、規範が人を押し潰すということもある。

 

強すぎる規範は人を潰したり、少なくとも思考力を奪う。一方で、規範がなければ不安が強く、人は生きていけないように思う。個人的には、強すぎない規範が人にとって、組織にとって、良いのではないかと思う。

例えば、僕が中学生の頃、自身の生に対する不安を紛らわせることができた1つの側面は、「とりあえず、学校の勉強はある」ということだったと思う。意味はわからなくても、そこにある。一方で、いわゆる進学校に通っていたら、勉強という規範が強すぎて、それに身を委ねてしまっていたかもしれないと思う。勉強は規範であり、僕の人生それ自体ではないのに、規範に人生を乗っ取られてしまう。

 

規範には一定の合理性がある。ある意味で、サボらせてくれる。ただ、サボりすぎると、何が最初にあったのかを見失ってしまうと思う。

合理的なところは利用して、自分自身の問題への問いや思考を深める。そういう規範が理想的なのではないかなと思ったりする。そういう風に規範を選べるのなら幸せなのかもしれないが、規範を選択するということが、人間の理性・知性において可能なのかは、それなりに難しい問題であるとも思う。