マッチ

僕が子どもの頃、多くの飲食店、喫茶店はもちろん、寿司屋や焼肉屋、居酒屋やスナックなどにはマッチが置いてあった。店名や住所、電話番号などが書いてあって、箱の大きさや形は意外といろいろあって、持ち手は木のものもあれば、紙のものもあったと思う。

おそらくは煙草を吸う客のために置かれているもので、席の灰皿の上に置かれていたり、レジの横に置いてあった。何故だかは覚えていないのだけれど、子どもの頃、それを集めるのが趣味で、食事に行くと大抵は貰ってきていた。

 

我が家はわりと外食が多かったので、中高生の頃にはかなりの数が集まっていて、なんとなく捨てることが出来ずに残していたが、大学進学で実家を離れた後、しばらくしてから捨ててしまった。

集めていた時もそれほど熱心にコレクションしていたわけではないし、そもそもマッチが箱いっぱいに詰まっているのはなんとなく危険な気もするのだけれど、ちっぽけで意味がない感じが気に入っていたのか、それなりに愛着を持っていたように思う。

 

当然だけれど、普通の感覚ではマッチが自分だとは思わないし、マッチを捨てたところで自分が損なわれるとも思わないだろう。僕の場合はマッチだったが、小さい頃にお気に入りのぬいぐるみやカバン、タオルなどがあって、それが無いと不安だったという人もいるかもしれない。

大人になって、お金や肩書きを失うと、自分が損なわれたように感じる人もいるかもしれない。もちろん、それらには実利があるということもあるかもしれないが、本質的にマッチやぬいぐるみと何が違うのかというと、そんなに簡単に決めきれないところがあると思う。敢えて捨てる必要はないし、大切にすることも大事だけれど、執着するのも少しおかしいという点は似ているのではないかなと感じる。

分布

人間の存在であったり、言葉であったりは、だんだん曖昧になっているように感じる。曖昧というよりは、点だったものが分布になっているという方が近いかもしれない。

僕は元々、多面的な存在というイメージを人間に持っていて、例えば、状況によって人間の人格や役割は異なっているし、物事というのは光の当て方次第で意味合いが変わると思っている。しかし、それはあくまで一定しっかりした境界を持った個体で、ある瞬間で観察すれば、その人がどういう存在なのかをある程度は知ることができるという想定である。

 

ここで曖昧とか分布と呼んでいるのは、古典力学と量子力学の違いに近いと思う。古典力学の観察と量子力学の観察は本質的に異なっていて、古典力学と違って、量子力学では物理量は分布や揺らぎを持っていて、観察によって一意に定めることはできない。

僕は古典的な人間なので、どうしても古典的なイメージで世界を捉えてしまうけれど、おそらく今の若い世代にとって、存在が揺らいでいることは自然に理解できるのではないかと思う。オンライン/オフラインで同時に複数の人や物事と向き合っていて、ある瞬間の自分が一意ではなく揺らいでいるというのは、自然なことなのではないかと思う。自分は多面的であるというより、自分には揺らぎがあるという方が自然なのではないかと思う。ちょうど、100年前には不自然に感じた量子力学を、今の僕たちが自然に感じるように。

 

この現象の原因はいろいろあると思うけれど、例えば相互作用(コミュニケーション)の急激な増加は原因の1つだと思う。そして、これからの人間にとっては、曖昧なものを曖昧なままに受け取ることが自然になるのではないかと感じている。

正確(それが何を指すのかは難しいが)に伝えることではなく、なんとなく伝わっていって、人によっては「なんとなく」の中になんとなく本質を見つけていく。そして、その本質は人それぞれによって異なる。これは本質的に「なんとなく」であって、確かなものをなんとなく感じているわけではない。まだあんまり考え切れてはいないけれど、なんとなくそういう気がする。

現実

「教育現実」という言葉がある。教育の場において現実とされる概念世界、というくらいの意味だとなんとなく理解している。社会において現実とされる概念世界である「社内現実」に対して、その言葉が使われるらしい。

例えば、死や老い、性や差別などについて、社会現実に対して教育現実をどの点に置くかといったことが問題になる。過度の教育現実は(もしくはあらゆる教育現実は)洗脳的であるかもしれないが、社会によって繁栄を実現している動物である人間にとって、教育現実は必要であるという面もある。僕たちは社会を破壊しない範囲で批判的であることが可能だろうと思う。社会が破壊されれば、批判する対象が失われてしまうのだから、批判は社会への信頼や甘えによって成立している。

 

教育現実は例えるなら「壁」であり、基本的には教育という行為や現場、それに関わる人々を守るためにある。しかし、情報化によって壁が意図通りに機能せず、むしろ環境を破壊する要因にもなり得る。壁の外の世界を容易に知ることができることによって、壁の中では指導者に対して不信が発生する。「先生は、本当のことを教えてくれない」と感じる。

「壁」であるのはなにも教育現実に限らず、社会現実も壁なのだから、『進撃の巨人』という漫画で描かれているような複数の壁に囲まれた世界というのはメタファーとして実際に近いと思う。より大きな壁を支配している人は、おそらく自分のことを偉いと思っているが、壁の外では無力である。一方、壁の存在が疎ましいからと言って、壁の先に解があるのかというと、普通はあまり無いと思う。壁の外に解が乏しいから、壁が存在している。人間は自ら壁を作ってしまう生き物であるとも思う。

 

僕たちは意識するしないに関わらず、壁の影響を受けている。なるべくなら、それに自覚的でありたいと思うけれど、思考は通常は外部との交信によって成立しているのだから、世界と僕はある意味で同じものであり、自覚と無自覚の境界は曖昧だと思う。

自覚的とは、境界を意識することだと思う。一方、境界が曖昧であることが感性においては大切だと思う。なるべく自覚的でありながら、たゆたうように生きることができれば、少しだけ世界に触れられるのではないかなと感じる。

嘘つき

僕は、嘘は必ずしも悪いことだとは思わないし、むしろ生きていくためには多少の嘘は必要だと思っている。僕自身で言えば、嘘をつかない日はおそらく無いのではないだろうかと思う。

「元気?」と聞かれれば多少不調を感じていても「元気」と答えるし、「大丈夫?」と聞かれれば多少不安でも「大丈夫」と答える。逆に少しサボりたい気分の時は「少し調子が悪い」と答えるだろう。若い頃は「好き」という表現にかなり抵抗があったけれど、それも必要に応じて使うようになったと思う。そもそも、真実が何かなんてことはわからないということもある。

 

嘘をつく時に少し気にしているのは、それが持続可能かどうかということで、そう簡単に人生はリセットできないので、長期的に見て都合が悪くなりそうだったり、自分自身を苦しめそうだったり、大事な関係が壊れそうな嘘はなるべく避けた方が楽だろうと思っている。

逆に言うと、短期で見れば嘘をついた方が利益を得やすい。嘘は短期的にはプラスだが、長期的にはマイナスだろうというのが、僕の感覚である。詐欺は短期的には非常に利益を得られるだろうし、詐欺やそれに近い行為を関係性が深く依存関係にある相手にはあまり行わないのも、それを表現していると思う。

 

嘘つきは、「嘘吐き」と書く。これはある程度、嘘という行為を侮蔑した表現だと思う。僕らは嘘無しには生きていけないけれど、上手な嘘というは難しい。

多少の嘘は許し合って生きたいと思うけれど、自分がそれに見合うかというと、それはまた難しいなと思う。多分、許すことも許されることも本当は簡単な話なのだろうと思うので、自分自身はなるべくそうありたいなと思う。

世の中に溢れる物語や詩のせいなのか、若い記憶のせいなのかは定かではないけれど、恋、とりわけ初恋というものは、なんとなくドラマティックな印象を与える。

ただ、僕自身の記憶を辿るに、例えば初恋がどれであったかについて確信を持ちづらい。それは多分、僕の性格が影響していて、僕はあまり自分が好きではないし、性質もとても未熟なので、あらゆる記憶はたいてい愚かに思えて、名前を付けて留めたくないのかなと思う。

 

今でもそうだけれど、僕は自分の感情というものがよくわからない。タチが良くないことに、それをわかりたいということをどこまで思っているのかも曖昧だと思う。昨日は好ましく感じたことが今日は憎らしく思えることがあるし、記憶は美しいような気もするし、醜いような気もする。そして、それに答えを出したいとも思っていない気がする。

初恋は美しいと同時に醜いものの1つで、そういったものはたくさんある。もちろん異性に好意を感じることはあったけれど、それを美しいと思うには、僕にとってはいろんなことが難しすぎたと思う。イチローが「朝は頭がクリアだから、朝起きた時に気にしているのなら、少し好きなんじゃないかな。夜はダメ。判断力が鈍るし、暗いから」といったことを説明していて、それくらいシンプルに考えた方が良いのかなと思う。

 

そもそも誰かに恋をする、という表現が正しいのかもわからない。万葉集では、「こひ」という言葉に孤悲とか故非とかと当てることがあるそうだ。孤(ひとり)悲(かなしむ)、故(もとは)非(しからず)などと読めて、恋う対象は空間的、時間的に近くにはいない。感情なのだから当たり前だという気もするけれど、恋は自身の中にある。

物語があるから、人間は過去や未来に想いを馳せることができる。過去や未来という概念を持っていることは人間に特有の性質だと思う。一方で、物語を生きすぎると、人生とは何かを見失うような気もする。シンプルに人を好きになるというのは、簡単だけど難しいなと思う。

誇示

僕は生来が賤しいからだと思うのだけれど、誰かだけが勝っているとか、誰かだけが偉いとかいうことが得意でない。そういうことが好きでないとか、気分が良くないとか言ってもいいかもしれない。

貴い人間はそんなことは思わないだろうから、やはり僕は賤しいのだと思う。賤しいから、貴さに対する僻みがあるのかもしれない。

 

序列というのも、仕組みはなんとなくわかるし、大人になったことでそれの大切さや効用も感じるけれど、便宜以上の序列というのはあまり好きでない。人は偉いから上に立つのであって、上に立つから偉いわけではないと思いたいのだと思う。

こういう考え方は日本的であったり、古典的であったりするのだけれど、人は上に立つほど、首を垂れて生きる方が美しいと思う。

 

僕自身、それでたくさん失敗をしてきたし、今でも失敗してしまうけれど、他人に自分を誇示してもあまり良いことは無くて、失うことも多い。僕は経験的に、自分を誇示することで損なうことが多いと感じているが、逆に誇示しないことで損なうことが多いという経験をする人は、誇示する方が理に適っていると感じて、誇示することを止めないのだろう。

わざわざ貴賤や序列を問題にすること自体が面倒だけれど、それも生存戦略や役割分担の結果に過ぎないと思えば、なんとなく動物的で、可愛いものである気もしてくる。少なくとも僕には、自分を偉く見せ続けることは体力的に難しいと思うので、それが出来るというのも才能ではあるだろうと思う。

信頼

何かを信じる、ということに対しては、一貫した態度を持つことが難しいと思う。もちろん、一度だけ信じるということにもハードルはあるけれど、信じ続けられるか、また、疑いを抱かずにいられるかというのが難しさの本質ではないかと思う。

タチが悪いのは、信じたり、疑ったりすることに一貫性がないケースだと思う。それは他人でもそうだし、自分自身についてもそうで、仲間であったり、家族であったりに対して、自身の態度が一貫しないのであれば、信頼関係を築くことが困難になる。

 

一貫して疑う、というのも解の1つになると思うけれど、信じることに比べて疑うことの方がエネルギーを必要とすると思う。また、自分の「疑う」能力を絶対的に信頼し、「疑う」という態度が他者からも信頼されるほどでなければ、それで信頼を築くことは難しいだろう。

少なくとも僕は面倒くさがりだし、疑うほどコミュニケーションが好きでも得意でもないので、なるべくサボれるという意味で、信じていたいと感じる。

 

信じたり、疑ったりということに一貫性がない人とは、なるべく付き合いを薄くしていった方が良いと思う。もちろん、相性の問題や距離感の問題なので、適切な距離を取るというのがどんな人に対しても必要だろう。むしろ、適切な距離を知って初めて、人は何かを信じ続けられるようになる気もする。

人間は不安な生き物なので、信じるということは難しくもあるけれど、信じるという楽観さが前進には必要だと思う。少しずついろいろなものを信じられるように工夫できると良いなと思う。

淡々

無感動、ということではなくて、淡々という過ごし方ができると良いなと思う。やるべきことを、1つひとつ進めていく。それに取り組み続けることは難しいけれど、続けるということが尊いと思う。

気持ちとしては、好きなこと、自分が大切だと思うことに向かいたいと思うけれど、目の前の出来事や仕事に取り組めないことには、好きなことを続けていくということも難しいのではないかと思う。それは精神的な意味合いに留まらず、実際的にも、例えばお金の問題だったり、機会の問題だったりは、目の前の物事に取り組み続けることで持続可能になるように感じる。

 

淡々と過ごしていくためには、気長、ということが大切だと思う。今すぐにカタがつかないことの方が多いし、カタをつけるということは、物事を終わらせてしまう。

今、目の前で片付いていかないということに、つい苛立ってしまって、人や物に当たってしまうこともあるけれど、当たったところであまり物事は進まない。一方で、当たってしまうという気持ちを受け止めてくれる人が身近にいるなら、それはずいぶんと幸せだというのも大切なことだと思う。

 

利休百首』というものの中に、「茶の湯とは たゞ湯を沸かし 茶をたてゝ のむばかりなる 事と知るべし」という句がある。僕は茶道にはまったく心得はないけれど、そういうものなのかなと思う句だなと感じる。ただお湯を沸かして、お茶をたてて、のむ、ということにすべてが詰まっているというのが、利休の考え方なのだろうと思う。

繰り返しになるが、それにすべてが詰まっているのだから、それは決して無感動にはならない。淡々、は無感動ではない。無感動、ということではなくて、淡々という過ごし方ができるように、少しでも考えたり、工夫したりして、日々を過ごしていけると良いなと思う。

利休百首

栄達

何かを求め続けるということ、まして、純粋に求め続けるということは尊いと思う。それが仮に「復讐」のようなものであっても、純粋であれば、その行為には尊さがあると思う。

極端な話、求めるものは何でも良いと思う。名誉や栄達、金銭や名声、そういったものであっても、純粋であれば良いと思う。純粋であるためには、どこまでも達しないような理想を抱く必要がある。

 

人間にとっては、得ることより守ること、捨てることが難しい。進むことより留まること、退くことが難しい。捨てなければ、求め続けることはできない。退けるかどうかで、人の品性が問われる。

凡人が失敗しないためには、手に入れ過ぎないこと、が大切だと思う。もう少し修養ができるなら、理想を遥かに抱けると良いと思う。「志在千里」、「凌雲之志」という言葉があるが、理想が遥かにあれば、今、目の前にあるものに対する執着を少しは解くことができるかもしれない。

 

栄達、というが、栄誉に達してはいけないのだと思う。純粋に求め続けること、ただ進み続けることでしか、人は美しくあれないのではないかと感じる。守ること、留まることは、おそらくものすごく難しい。

歩み続けていれば、そこに人間の尊卑は無い。まあ、そこまで言い切れるほど、僕は人間が出来てはいないけれど、そういう感覚を持っていたいなと思う。

夢中

夢中、はなんとなく良いものだと思われている。本気になれるもの、情熱を持てるもの、そういうものを見つけた方が良いと言われる。

それ自体はそうかもしれないが、他人にそれを要求するのは勝手だと思う。何かに夢中な人は、他人に夢中を求めたりしない。夢中なのだから、他人の夢中に関わっている暇など無いと思う。夢中や情熱を他人に求める人は、単にその方がその人自身が楽だったり、便利だったりするからだと思う。

 

僕自身は、小さい頃から夢中とか本気とかいうことが苦手で、むしろ正体を失ってしまうような気がして、避けていたように思う。高校まではバレーボールをやっていて、好きだったとも思うけれど、勝ち負けに拘るということは苦手だった。わざわざ勝敗をつけるということに意味を見出せないということもあって、大学からは合気道を始めた。

夢中になれなくてもよいし、まして、無理矢理に夢中を見つけるというのはあまりセンスが無い。日常は多くの場合、なんとなく好きなものと、なんとなく嫌いなもので構成されていて、それを感じ続ける中で、いつも自分の近くにあるものを認識していく。それを深めていく、ということが少しでもできれば、それは十分に尊いと思う。安易に夢中というラベルを付けることで失われるものも多いと思う。

 

もちろん、これは凡人の話で、何かに没頭し、ある道で類まれな事績を成し遂げる人はいるし、人々はそれに憧れる。憧れている、ということは、そうはなれていないということだろう。ただ、憧れるということは尊いので、天才という存在は偉大だと思う。

夢中になれるのであれば、夢中になると良い。ただ、無理に夢中になろうとするのは、やはりどこかで歪みが生じてしまうと思う。まして、他人にそれを求めるのは筋違いだろうと僕は思っている。これは夢中に限らず、「貢献」であったり、「努力」であったり、「論理的」とか「創造的」まで、すべからくそうではないかなと思う。そうありたいのであれば、ただそうあれば良い、と個人的には思う。