時宜

時に宜しくある、ということは難しいものだと思う。大抵の判断というのは、状況によって変化するものである。その時においては宜しい、というものである。

お金を使うべき時もあれば、使わないべき時もあるし、仕事をするべき時もあれば、しないべき時もある。寝た方が良いこともあるし、夜更かししても良いこともある。

 

人間の脳というものは、おそらくは概ね記憶で出来ているのだから、基本的には過去を参照して行動する。過去の行動が正しかった、と思っていると、同じ行動を繰り返す。間違ったと思っていると、間違いを犯さないという思考や行動に陥りがちになる。

時宜を外し始めると、思考も行動も混乱してくる。「どうして今、それをするのか」ということが増えてくる。あるいは、「どうして、それが出来ないのか」ということが増えてくる。

 

人間は、その生存・防衛の本能からなのか、ポジティブよりネガティブを記憶として保持しやすい。そういう視点においては、「正しかった」と思っていることの多くは、実は「間違っていなかった」という正当化によって成立しているように感じる。冷静な判断、というのはあまり存在しないだろう。

結果として、どちらかと言うと、人は生きるほどに消極的になりやすい。やるべき時にやれない人間は、何事もおいてもやれない、ということになる。一方で、積極的な人間は時に暴走しやすい。

 

時に宜しくある、ということは難しいものだと思う。物事や自身に対して、なるべく深く、かつシンプルに理解していくということが大事なのではないかと感じる。

秘密

秘密と申しても、無論これは公開したくないという意味の秘密ではない、公開が不可能なのだ。人には全く通じ様のない或るものなのだ。

(小林秀雄 『私の人生観』より抜粋)

現実を生きるという行為の中には、常に理論より豊富な何かが含まれている。現実に畏敬を抱く者にのみ、現実が与えられる。そして、与えられた現実、もたらされた経験は、本人においてのみ観ることができるのだと思う。

 

人にはそれぞれに生き方があるし、与えられた現実を互いに知り合う必要はない。そんなことはそもそも不可能だとも思う。そして、別にそれで良い。

小林秀雄においては、それは文章を書くという行為に含まれる秘密なのだろう。何かに向き合って、何かを大事にして、愛おしいと思って取り組めば、それぞれに秘密が立ち現れてくるだろうと思う。

 

語り得ないから秘密だし、その秘密は自分自身にもよくわからないものである。自分自身にもわからないものは、到底、誰かに明かすことはできない。何かを伝えようとしていたとしても、それは僕にとっても想像に過ぎない。

自分のものにせよ、他人のものにせよ、そういう秘密に想いを馳せることは尊いと、僕は思っている。四六時中、そんな風に想いを馳せることはもちろんできないし、おそらくは望んでもいないけれど、秘密には尊さがあると思う。

都合の良さ

墨子』の貴義第四十七、十五節に、衛という国に仕官させた人が帰ってきてしまったというエピソードがある。話を聞くと、「行ってみると話が違った。はっきりしなくて、確かでない」、「千金(原文では「千盆」。盆は量の単位で一盆は二鬴、一鬴は六斗四升という)を与えると言っていたが、その半分しか与えられなかった。確かでないから、帰ってきた」と言う。

それに対して、墨子は「あなたはもし、千金以上を与えられたら帰ってきましたか?」と質問する。それには「いいえ。帰ってこなかったでしょう」と答える。もしそうだとすれば、「あなたが帰ってきたのは、確かでなかったからではない。報酬が少なかったからです」と墨子が諭すという話である。

 

人間は、自分が正しいと思っていると、自分の都合で物事を解釈してしまう。都合の良い時は受け入れるが、都合の悪い時は相手を批判する。そうなると、義は失われてしまう。

義というか、正しさというか、そういうものを以て生きるというのは、そんなに簡単ではない。無私でなくてはいけない、というのはあまりに教訓めいているし、「無私」という表現自体が「私」を強く意識しているから出てくる言葉だろうと思う。無私はそれこそ、難しいと思う。

 

僕も含めて、ほとんどの人間は「私」を強く持っている。多少なりとも他者と対話したり、世界や現実に向き合って思考したりするための方法は、自分がどれだけ「都合」で生きているのか、自分の身勝手な「都合」がどういうものなのかを少しでも自覚することなのかなと思う。

良くも悪くも、人間はご都合主義で、都合良く生きている。そうとしか生きられないし、ある意味では、そうであるから生きていられるとも思う。

均衡のデザイン

諸行無常、万物流転などといった表現を引くまでもなく、事物は変化を続けている。デザインするとはつまり、多くの場合においては「均衡をデザイン」することである。

 

ボストン・コンサルティング・グループの設立者で、会長を務めたB.D.ヘンダーソンは戦略を「競争の均衡関係」として考えるというアイデアを、『経営戦略の核心』において提出している。現在の均衡関係を崩して、より有利な均衡関係をつくりなおすのが見事な戦略である。

戦略という考え方が軍事行動を参考にしたものであるため、ビジネスにおける戦略論においても、しばしば「選択と集中」という表現が用いられる。これはつまり、自分の強みを相手の弱みにぶつけることによって、勝利を得ようとするものである。もちろん戦略目標に依存するが、「いつまでも続く作業」である企業経営においては「均衡関係」をデザインすること、および、その移行・維持に伴う打ち手の束を戦略の全体像と捉えた方が合理的であろうと思う。

 

デザインする対象の硬さ・柔らかさによって、均衡があたかも静止のように見えることもあるだろうが、どんな対象も永遠でない以上は「均衡をデザイン」しているという意識を持つことは大切だと思う。静止とは、単に扱おうとしている対象の変化と時間を比較した際に、変化を十分に無視できるという近似を許しているに過ぎない。

変化を意識することで、その均衡が持つ意味であったり、その均衡を可能にしている要因、重要な変数、可変性であったりといった情報に触れることができる。

 

なぜ均衡であったり、変化であったりを意識することが重要かというと、「より良い均衡関係をつくりなおす」ことがデザイン行為において非常に困難、かつ、極めて重要であるから、である。デザイン行為を「適合の発見」と捉えると、現実には到達しえないかもしれない理想の適合に向き合い続けることに、行為の尊さと要諦があると思う。

うまくいっている時に、デザインを再検討することは難しい。そんな必要はないと感じるし、あまりに疑いの目を向けてしまうと、日々の活動に支障をきたす。一方で、デザインが破綻し始めると、それはそれでそれどころではなくなる。常に見直さなくてはいけないことは明らかなのに、見直す余地がないようにも感じる。

 

B.D.ヘンダーソンの表現を借りると、「現在を成立させている原因を完全に把握しなくては、将来を生み出せない」ということになる。完全に、という表現はいかにもコンサルタントらしいが、理想としてはそうだろうとも感じる。

好みの問題ではあるが、デザインはなるべく適合がシャープであると同時に、適合の範囲が広い方が好ましいことが多い。また、デザインされたものは残っていく以上、デザインは常に将来のためにある。そう考える時に、デザインとは時間的に連続したものであり、この瞬間のデザインは何らかの均衡関係であるという捉え方は大切だと思う。

憎しみ

人なので、人を憎むことがある。恨むことがある。

どんな時に憎しみが生じるのか、恨みが生じるのかというと、欲しいものがある時に、だと思う。なぜ、自分のものにならないのか、自分は得ることができないのか。そう思う時に、憎しみであったり、恨みであったりが生じる。

 

憎しみや恨みは、欲望の裏の顔だと思う。憎しみや恨みは、欲望と仲良しだと思う。そして、欲望は人と仲良しだと思う。

憎むと惨めで、憎まれると悲しい。ごく正直に、そう思う。だから、なるべくなら、欲望に触れずに生きたいと思う。強い欲望を持てることは1つの才能だとは思うけれど、欲望に触れられてしまうのは、自分の未熟さだと思う。愚かだから、憎しみや恨みに触れてしまう。それを振り返らなくてはいけないと、そういう夜は、そう思う。

 

悲しいという気持ちは人間にとって、たぶんとても大切だと思う。自分の悲しさを認めないと、受け入れないと、誰かの悲しみに想いを馳せることができない。悲しみを受け止め合うことは、たぶん、人間にとって大切だと思う。

一方で、具体的な処理については、なるべく合理的に考えることも大切だと思う。どんなに悲しくても、前に進んだ方がきっと良い。それぞれの個人が、それぞれの組織が前に進もうとする力もまた、人間にとっては欠くことができないだろうと思う。

おもいやり

なんとなく、「おもいやり」があった方が幸せなのではないだろうかと思うことが最近、増えたように思う。能力は大切だし、お金も大切だと思う。ただ、おもいやりもあった方が良いと思う。

 

僕自身は、今もそうだし、過去は今以上に、おもいやりに欠ける人間だという自覚がある。人を傷つけることが多いし、人を傷つけたことを悲しいと思うわりには素直になれない。どちらかというと、関わりを煩わしく思ってしまう。

過去より少しはましになったと感じるのは、自分が持っている能力もお金も大したことはない一方で、十分にありがたいくらいには恵まれていると思うようになったからだと思う。

 

要するに、僕はとても普通であると思う。普通だから、とりたてて徳も人望も無くて、たぶん、僕が思っている以上にいろいろな人のおかげで幸せだと思いながら生きている。

その総体を支えているのは、おもいやりに依るところが大きいと感じるようになったように思う。今はまだ、能力も大切だと思うし、お金もあった方が便利だと思う。人を憎く思うこともあるけれど、もっと衰えてくれば、まごころだったり、おもいやりだったりに依って生かされているという感覚はより強くなるような気がする。

 

生きる意味はもちろんわからないのだけれど、何かしらを考えながら、工夫していきながら生きていく気力を持てると良いなと思う。

問題解決における人間の存在について

的(まと)を定める、ということは思っている以上に難しいと思う。

内面生活での問題はもちろん、自身の中に的を定めていくこともあるだろうと思うが、日々の中で処理すべき問題の的は通常、自身の外にある。本来、関心を持たれるべきは問題それ自体なのだが、人間はその問題に関わっている人に関心を向けやすい。人は、人に関心を持つように設計されているのだろう。

 

なぜ人は、それほどに人が気になるのかという問いは、それはそれでとても興味深いが、ここでは問題解決という文脈における効果について考えてみたい。

問題解決において、それに関わる人々の間に信頼があるかどうかは大きな影響を及ぼす。人は問題解決において、人為を感じているのだと思う。個々人の問題解決という行為への関わり方に、善意や悪意といった感情を見出しているのだと思う。そして、そういった感情が問題解決という行為を複雑なものに感じさせてしまう。そういう意味で、問題解決を業務委託するコンサルティングというモデルには、一定の合理性がある。

 

使い古された言い回しではあるが、「何を言うかではなく、誰が言うか」。通常は、「自分が言っても誰も聞いてくれない」「あの人が言う通りにしかならない」といった文脈で使われるが、人の心を油断させて、本音を引き出すという効果もある。

人間は相手を見て、攻撃的になったり、臆病になったりするので、攻撃的な面(いわゆる本音)を引き出そうと思うのであれば、その人のそういう面を引き出しやすい環境を作ってやれば良い。

 

ただ、最後は結局、「問題解決」という1点に神経を集中させることが大切だと思う。問題解決というテーマにおいて、人間の存在は制約であったり、ファクターであったりに過ぎない。もし、問題解決の中心に人間がいるのであれば、それは「その人間が問題解決のテーマ」であるということだと思う。

人間を見つめなければ問題は解けないが、人間だけを見つめていても問題は解けない。見つめられた人間は、自分と問題を混同しやすいが、問題はあくまで問題であるという感覚が、解決に繋がっていくと思う。

私心

世の中に、たぶん真実は無い。あるとすれば、それは自身の中に、だと思う。要するに、信じるか、信じないかということだと思う。

他者を信じない人間は、他者から信じられることも難しいと思う。他者と関係性を構築するために大切なことはいろいろあるとは思うけれど、少なくとも、「思いやりを持つこと」と「認めること、信じること」は重要だと思う。

 

他者を疑う人間というのは、自分に対して疑念があるように思う。自分を信じることができないから、他人も疑ってしまう。自分を信じていないから、常に自己を利すことを考えてしまう。

嘘を吐いて、自己を利す人間は、多くの場合は「私心」を持っていると思われてしまう。私心を感じると、ますます他者からは信じてもらえなくなる。

 

物事を小さく捉えると、思いやりを持つこと、他者を信じることは難しくなるように感じる。自然においては「天」、集団においては「公」を見据えることで、1つひとつの事象や人物に拘泥せずに済むのではないかと思う。

興味深いのだが、「みんなのためにやっている」と主張する人は、「私心」を持っていると捉えられやすい。おそらくは、個々の要求を潰すために「みんなのため」という論理を振りかざすからだろう。天や公を利すことと、個々の事象や人物を利すことが矛盾しないような生き方をして初めて、器が大きいと言えるのではないかなと思う。

冷静さ

このところ、冷静さを失っているなと思う。「冷静でない」というのは、もちろん様々な側面があると思うが、判断基準の優先度が混乱している状態ではないかと思う。

そういった場合は大抵、疲れているので、判断基準に対する批判に対して、正しく批判として捉えられず、非難だと感じてしまうのも問題だと思う。

 

捨てないと、大切なものを見失う。自分は持っているという感覚が、冷静さを失わせる。大切なものは持たないか、たぶん、1つくらいで良いのだと思う。

人間なんてものは、最初から捨てられているものだと思う。「捨てられるのが怖い」というのは、集団でしか生きていくことができない人間の、壮大な妄想なのだと思う。

 

「頓着しないようにしよう」と思っている時点で、大いに頓着していて笑えるが、おおらかで空っぽの、巨きな器に憧れているのは事実だと思う。好みの問題だが、拘っている人は醜いと僕は思っている。本当に美学のある人は、他人に対して拘ったりしないはずだ。

人間の1つの性質として、やっぱり人と生きていく必要がある。人と生きていくためには、ある種の強さはやっぱり必要だと思う。晒されるから弱いけれど、晒されるから強くあれる。晒されていないと、強くあるのは難しい。

やわらかい悲劇

悲劇は、やわらかく描かれることで悲しさが高まる。そんな話を教えてもらった。もちろん、その人の感覚なので、一般的にそうなのかはわからないけれど、僕もなんとなく、そうだなと感じた。

 

現実は厳しいと言ったりするけれど、実際には真綿のような苦しさだと思う。氷で閉ざされた地域や砂漠に生きる人は違う感覚を抱くのかもしれないけれど、少なくとも日本の比較的、温暖な地域に住んでいるとそう思う。

悲劇は終わらない。終わらないから悲劇になる。どうしようもない。それが悲劇だと思う。進むことも、退くことも、生きることも、死ぬことも、どれも困難である。ただ、今がある。

 

多くの場合に想像するように、悲劇は人を刺し殺すようなものではなくて、真綿で首を絞めるようなものだと思う。そのやわらかさが、苦しくて、悲しい。そのやわらかさが、人を絶望させようとする。絶望したくない、と思えば思うほどに。

多くの人は、それに対して、どうやって対処しているのだろうかと思ったりする。たぶん、きちんと食事を摂り、早寝早起きをして、お日様を浴びる。そんなことなんだろうなと思うのだけれど…。