人間がモノローグ(独白的)なのか、ダイアローグ(対話的)なのか、というと、モノローグであると僕は思っている。
身体表現を含めて、言葉というものが、ただそのままに行き来するということは、極めて困難だと思うし、なんなら、対話とは文化と文化の衝突であると思う。
テクノロジーによって狭くなった世界では、衝突が激しくなる。衝突それ自体は、きっとあまり好ましくないような気がする。そこで、手法としてダイアローグが流行ったりする。
衝突することで、理解に至るのだという考え方もある。しかし、生産的な衝突というものを見ることは少ない。自らの文化の枠組みを認識し、破壊し、あらためて建設することは、なかなかに困難だと思う。衝突の中で、そういった目的を見失わないということは、人間には難しいように感じる。そもそも、そんなことをしたい人間がどれほどいるのか、とも思う。
衝突ではなく、共感を目指すダイアローグも存在する。U理論やマインドフルネスといった概念は、それに近いように感じる。そして、確かに「共感」を感じる瞬間というのは、存在すると思う。
ただ、共感できないから「共感」を掲げるのだと思うし、あらゆるものへの共感は、きっと天性的・本性的ではないように思う。そんなに共感的だと、なんとなく絶滅してしまいそうな気がする。また、共感を求める対話において、真に言葉が交わされているのかという点にも疑問を感じる。共感は、ときに空虚にも似ている。
独白的な人間は、自己と対話しているのだと思う。そこに、対話というものの限界を見る。対話というものを深く知ることになる。
そう思っているので、どちらかというと独白的な人間に対して、他者との対話は開かれているのではないかと思っている。まあ、完全に好き嫌いではあるけれど、個人的には、モノローグな人間の方が好きだなと思う。