世の中に溢れる物語や詩のせいなのか、若い記憶のせいなのかは定かではないけれど、恋、とりわけ初恋というものは、なんとなくドラマティックな印象を与える。

ただ、僕自身の記憶を辿るに、例えば初恋がどれであったかについて確信を持ちづらい。それは多分、僕の性格が影響していて、僕はあまり自分が好きではないし、性質もとても未熟なので、あらゆる記憶はたいてい愚かに思えて、名前を付けて留めたくないのかなと思う。

 

今でもそうだけれど、僕は自分の感情というものがよくわからない。タチが良くないことに、それをわかりたいということをどこまで思っているのかも曖昧だと思う。昨日は好ましく感じたことが今日は憎らしく思えることがあるし、記憶は美しいような気もするし、醜いような気もする。そして、それに答えを出したいとも思っていない気がする。

初恋は美しいと同時に醜いものの1つで、そういったものはたくさんある。もちろん異性に好意を感じることはあったけれど、それを美しいと思うには、僕にとってはいろんなことが難しすぎたと思う。イチローが「朝は頭がクリアだから、朝起きた時に気にしているのなら、少し好きなんじゃないかな。夜はダメ。判断力が鈍るし、暗いから」といったことを説明していて、それくらいシンプルに考えた方が良いのかなと思う。

 

そもそも誰かに恋をする、という表現が正しいのかもわからない。万葉集では、「こひ」という言葉に孤悲とか故非とかと当てることがあるそうだ。孤(ひとり)悲(かなしむ)、故(もとは)非(しからず)などと読めて、恋う対象は空間的、時間的に近くにはいない。感情なのだから当たり前だという気もするけれど、恋は自身の中にある。

物語があるから、人間は過去や未来に想いを馳せることができる。過去や未来という概念を持っていることは人間に特有の性質だと思う。一方で、物語を生きすぎると、人生とは何かを見失うような気もする。シンプルに人を好きになるというのは、簡単だけど難しいなと思う。

誇示

僕は生来が賤しいからだと思うのだけれど、誰かだけが勝っているとか、誰かだけが偉いとかいうことが得意でない。そういうことが好きでないとか、気分が良くないとか言ってもいいかもしれない。

貴い人間はそんなことは思わないだろうから、やはり僕は賤しいのだと思う。賤しいから、貴さに対する僻みがあるのかもしれない。

 

序列というのも、仕組みはなんとなくわかるし、大人になったことでそれの大切さや効用も感じるけれど、便宜以上の序列というのはあまり好きでない。人は偉いから上に立つのであって、上に立つから偉いわけではないと思いたいのだと思う。

こういう考え方は日本的であったり、古典的であったりするのだけれど、人は上に立つほど、首を垂れて生きる方が美しいと思う。

 

僕自身、それでたくさん失敗をしてきたし、今でも失敗してしまうけれど、他人に自分を誇示してもあまり良いことは無くて、失うことも多い。僕は経験的に、自分を誇示することで損なうことが多いと感じているが、逆に誇示しないことで損なうことが多いという経験をする人は、誇示する方が理に適っていると感じて、誇示することを止めないのだろう。

わざわざ貴賤や序列を問題にすること自体が面倒だけれど、それも生存戦略や役割分担の結果に過ぎないと思えば、なんとなく動物的で、可愛いものである気もしてくる。少なくとも僕には、自分を偉く見せ続けることは体力的に難しいと思うので、それが出来るというのも才能ではあるだろうと思う。

信頼

何かを信じる、ということに対しては、一貫した態度を持つことが難しいと思う。もちろん、一度だけ信じるということにもハードルはあるけれど、信じ続けられるか、また、疑いを抱かずにいられるかというのが難しさの本質ではないかと思う。

タチが悪いのは、信じたり、疑ったりすることに一貫性がないケースだと思う。それは他人でもそうだし、自分自身についてもそうで、仲間であったり、家族であったりに対して、自身の態度が一貫しないのであれば、信頼関係を築くことが困難になる。

 

一貫して疑う、というのも解の1つになると思うけれど、信じることに比べて疑うことの方がエネルギーを必要とすると思う。また、自分の「疑う」能力を絶対的に信頼し、「疑う」という態度が他者からも信頼されるほどでなければ、それで信頼を築くことは難しいだろう。

少なくとも僕は面倒くさがりだし、疑うほどコミュニケーションが好きでも得意でもないので、なるべくサボれるという意味で、信じていたいと感じる。

 

信じたり、疑ったりということに一貫性がない人とは、なるべく付き合いを薄くしていった方が良いと思う。もちろん、相性の問題や距離感の問題なので、適切な距離を取るというのがどんな人に対しても必要だろう。むしろ、適切な距離を知って初めて、人は何かを信じ続けられるようになる気もする。

人間は不安な生き物なので、信じるということは難しくもあるけれど、信じるという楽観さが前進には必要だと思う。少しずついろいろなものを信じられるように工夫できると良いなと思う。

淡々

無感動、ということではなくて、淡々という過ごし方ができると良いなと思う。やるべきことを、1つひとつ進めていく。それに取り組み続けることは難しいけれど、続けるということが尊いと思う。

気持ちとしては、好きなこと、自分が大切だと思うことに向かいたいと思うけれど、目の前の出来事や仕事に取り組めないことには、好きなことを続けていくということも難しいのではないかと思う。それは精神的な意味合いに留まらず、実際的にも、例えばお金の問題だったり、機会の問題だったりは、目の前の物事に取り組み続けることで持続可能になるように感じる。

 

淡々と過ごしていくためには、気長、ということが大切だと思う。今すぐにカタがつかないことの方が多いし、カタをつけるということは、物事を終わらせてしまう。

今、目の前で片付いていかないということに、つい苛立ってしまって、人や物に当たってしまうこともあるけれど、当たったところであまり物事は進まない。一方で、当たってしまうという気持ちを受け止めてくれる人が身近にいるなら、それはずいぶんと幸せだというのも大切なことだと思う。

 

利休百首』というものの中に、「茶の湯とは たゞ湯を沸かし 茶をたてゝ のむばかりなる 事と知るべし」という句がある。僕は茶道にはまったく心得はないけれど、そういうものなのかなと思う句だなと感じる。ただお湯を沸かして、お茶をたてて、のむ、ということにすべてが詰まっているというのが、利休の考え方なのだろうと思う。

繰り返しになるが、それにすべてが詰まっているのだから、それは決して無感動にはならない。淡々、は無感動ではない。無感動、ということではなくて、淡々という過ごし方ができるように、少しでも考えたり、工夫したりして、日々を過ごしていけると良いなと思う。

利休百首

栄達

何かを求め続けるということ、まして、純粋に求め続けるということは尊いと思う。それが仮に「復讐」のようなものであっても、純粋であれば、その行為には尊さがあると思う。

極端な話、求めるものは何でも良いと思う。名誉や栄達、金銭や名声、そういったものであっても、純粋であれば良いと思う。純粋であるためには、どこまでも達しないような理想を抱く必要がある。

 

人間にとっては、得ることより守ること、捨てることが難しい。進むことより留まること、退くことが難しい。捨てなければ、求め続けることはできない。退けるかどうかで、人の品性が問われる。

凡人が失敗しないためには、手に入れ過ぎないこと、が大切だと思う。もう少し修養ができるなら、理想を遥かに抱けると良いと思う。「志在千里」、「凌雲之志」という言葉があるが、理想が遥かにあれば、今、目の前にあるものに対する執着を少しは解くことができるかもしれない。

 

栄達、というが、栄誉に達してはいけないのだと思う。純粋に求め続けること、ただ進み続けることでしか、人は美しくあれないのではないかと感じる。守ること、留まることは、おそらくものすごく難しい。

歩み続けていれば、そこに人間の尊卑は無い。まあ、そこまで言い切れるほど、僕は人間が出来てはいないけれど、そういう感覚を持っていたいなと思う。

夢中

夢中、はなんとなく良いものだと思われている。本気になれるもの、情熱を持てるもの、そういうものを見つけた方が良いと言われる。

それ自体はそうかもしれないが、他人にそれを要求するのは勝手だと思う。何かに夢中な人は、他人に夢中を求めたりしない。夢中なのだから、他人の夢中に関わっている暇など無いと思う。夢中や情熱を他人に求める人は、単にその方がその人自身が楽だったり、便利だったりするからだと思う。

 

僕自身は、小さい頃から夢中とか本気とかいうことが苦手で、むしろ正体を失ってしまうような気がして、避けていたように思う。高校まではバレーボールをやっていて、好きだったとも思うけれど、勝ち負けに拘るということは苦手だった。わざわざ勝敗をつけるということに意味を見出せないということもあって、大学からは合気道を始めた。

夢中になれなくてもよいし、まして、無理矢理に夢中を見つけるというのはあまりセンスが無い。日常は多くの場合、なんとなく好きなものと、なんとなく嫌いなもので構成されていて、それを感じ続ける中で、いつも自分の近くにあるものを認識していく。それを深めていく、ということが少しでもできれば、それは十分に尊いと思う。安易に夢中というラベルを付けることで失われるものも多いと思う。

 

もちろん、これは凡人の話で、何かに没頭し、ある道で類まれな事績を成し遂げる人はいるし、人々はそれに憧れる。憧れている、ということは、そうはなれていないということだろう。ただ、憧れるということは尊いので、天才という存在は偉大だと思う。

夢中になれるのであれば、夢中になると良い。ただ、無理に夢中になろうとするのは、やはりどこかで歪みが生じてしまうと思う。まして、他人にそれを求めるのは筋違いだろうと僕は思っている。これは夢中に限らず、「貢献」であったり、「努力」であったり、「論理的」とか「創造的」まで、すべからくそうではないかなと思う。そうありたいのであれば、ただそうあれば良い、と個人的には思う。

時間

結局、物事というのは時間をかけただけしか深まっていかない、と思う。一方で、時間をかけていくことで、すぐにではないが、少しずつ深まっていくものだと思う。

勝負ということになると難しいけれど、自分の中ではどこまでも深まっていくはずだと思うし、深めていこうというものがないと、生きる甲斐というのは些細なものになるように思う。

 

勝負ということになると、拙速がむしろ好ましいこともある。深謀遠慮と同時に、神速果断ということが必要になる。だから、世の中はどちらかというと拙速に溢れていく。

「大器は晩成す」という言葉を知っていても、人は小成を求めるものだと思う。すぐに成果が出ないと嫌になってしまうし、ちょっとした成果で競い合い、一喜一憂してしまう。もちろん、何を大切にするかは人それぞれだけれど、時間を「有用」に使うことによって、長い目で見るとものすごく時間を無駄にしているということがあると思う。

 

時間は大切、ということを意味する言葉はたくさんあって、「時間は大切だから、なるべく有用に使おう、意味のあることをしよう」という意味で捉えられていることが多いように思う。でも、本当は逆だと思う。

時間は大切だから、ちょっと考えて「有用」だと思うことなんかに対して、効率的に使っていてはダメで、むしろ無駄だと感じることに費やした方が良い。有用なことが有用であることはわかり切っていて、無用なことが有用であることをわかるために、時間というものはあるのではないかなと思う。まあ、有用そうなことに対して頑張れない自分への言い訳でもあるのだけれど…。

自然犯

自然に、という表現が難しいが、自然にそれは良くないと感じる犯罪は自然犯と分類される。殺人や窃盗、放火などがこれに当たるとされる。わかりやすく他人の生命や物品を損なうということかもしれない。

自然犯でない犯罪は、法定犯とされる。法が定めた犯罪という意味だが、法にもいくつかの種類がある。規範は法だが、規範を破ることが犯罪かどうかは、その時々の判断にも依るだろう。法と罰は関連は深いが、同じものではない。法も罰も、明文化されていないケースも多く、むしろ、すべてを明文化することは不可能だろう。

 

法整備という観点では自然犯と法定犯という分類は分かりやすいが、現実に適用すると難しいところが出てくる。例えば、嘘をつくことは自然犯ではないだろうが、嘘をついて何かを騙し取ると窃盗になって、自然犯だろう。嘘をつかれて傷ついた、というのは場合によっては法定犯で、慰謝料といったものが払われるケースもある。

殺人は自然犯のように感じるが、戦争という法の下では多くの人を殺すことが勲章になることもある。犯罪に限らず、欧米では「すべては交渉次第」で、米国企業がロビー活動をするのは当然のことだし、無罪判決の割合も日本よりずっと高い。

 

チームラボの猪子さんがピカソについて、「物事っていうのは一点から見るのではなくて、多様な視点で見たほうが美しいんだよって拡張してくれた」と表現していて、なるほどなと感じた。自然犯という概念自体が法定的で、自然はもっとごちゃごちゃしていて、そのままで美しいと考えることもできる。

美しい、という話を始めると、それ自体が視点を縛っていく。そのままが良いのだ、ということに拘り始めると、それは不自然なことになってしまう。自然である、とはとても難しいことだなと思う。

違和感

自分がどう生きたいのか、という問題について、「こうである」という答えを出すことは僕にはすごく難しく感じる。一方で、「これは違う感じがする」と感じることはあって、ただ、それが何故なのかと聞かれると、それはそれで難しい。

違う感じの原因は羨ましさなのかもしれないし、嫌悪感なのかもしれない。嫌悪感を感じるということは、自分の中にも似たような性質があるのかもしれない。

 

もちろん、これはどう考えても違う、ということもある。ただ、何故「どう考えても違う」のかを言葉にするのは意外と難しいなと思う。好きじゃない感じ、気持ち悪い感じ、醜い感じというのがある。

例えば、僕はあんまり偉くなりたいとは思わないと同時に、偉くなるような才覚もない。少なくとも、それに情熱を注ぐことは難しいだろう。そう考えると、情熱なのかもしれない。立派な会社に入りたいとか、有名になりたいとかいうことに情熱を注げるイメージもあまりない。

 

あんまり人や物事に縛られたくないのかもしれない。また、皆がやっていることはやりたくなかったり、競争するのが面倒というのもある。あっちが偉い、こっちが偉い、というようなやり取りも苦手だし、評価をされるのは(ポジネガに関わらず)嫌いだと思う。

「僕」というものはよくわからないのだけれど、僕は僕でありたくて、そういう感覚はきっと普遍的なのではないかと思っているのかもしれない。だから、時代や場所、状況などに依存するものには違和感を感じるのかもしれない。

大局

素朴な話なのだけれど、遠くにあるもののことはわかるのに、近くにあるもののことはわからない、ということがある。そして、人間というのは、近くにあるものに関心を寄せる生き物だと思う。

「冬になれば、どんな星座が夜空に見えるのか」より、「明日は晴れるのか、曇りなのか、雨が降るのか」の方が難しい。ずっと晴れ続けたり、ずっと雨が止まなかったりということはないということはわかっていても、暑くて嫌だなとか、雨ばかりで憂鬱だなとか思う。

 

目の前のことに心を奪われすぎずに、大局を観て、自分の心が望む方向へと進んでいけると良いなと思う。そのためには、大局がどう動いていくのかということを、なるべく理解する必要がある。

教訓めいた熟語で、なんとなく気恥ずかしいが、例えば「晴耕雨読」というのはよい言葉だと思う。晴れていれば田畑を耕し、雨が降っていれば読書をする。理に適っているし、とてもシンプルだと思う。

 

僕は、「今」を生きるということがとても大切だと思っている。そのためには、「今」とは何かということを知らなくてはならないだろう。「今」は今だけではできていないので、今を知るために過去や未来を知る必要があるし、その中の法則や原則を知る必要がある。

今を見つめないと「今」はわからないけれど、今を見つめていると「今」に翻弄される。今を気にしすぎて、「今」を生きられないということになる。「今」というのは、それ自体が大局で、無限なのかもしれないと思う。