慣性

物体に慣性があるように、感情にも慣性があると思う。慣性というのは、ここでは一旦、「車は急に止まれない」みたいな話だと思ってもらえると良いと思う。通常、運動している物体は運動エネルギーを持っていて、何かしらの力を加えないと、その運動を変えることはできない。

 

感情の話に戻すと、例えば、一度好きになった人や物事に対しては、好きであることが持続しやすい。好きだったものを嫌いになるためには、逆の力をかける必要があるし、好きであったものに対して無関心になるには一定の時間がかかる。

嫌いになった人や物事に対しても同様で、基本的には「嫌い」の方向へと進むのが自然だろう。嫌い、へと進み始めたものを好きにするためにはエネルギーが必要だと思う。(本論とはずれるが、脳神経科学の観点から、こういったことをそれとなく説明することはできるのだと思う)

 

個人的には、物体であれ、感情であれ、あるがままである方が好ましいと思っている。好きなものは好きで良いし、嫌いなものは嫌いで良い。その方が自然だし、シンプルだし、楽しいと思う。現実問題としては、好き/嫌いという話と、やってみたい/やりたくないという話があって、「嫌いな感じはするが、やってみたい」というものはまだ良いが、「嫌いな感じがして、やりたいとも思えない」ものとは、なるべく距離を取っていった方が良いのかなと思っている。

「好きだし、やってみたいこと」が30-40%以下だと、感覚的には厳しいと感じる。人格が破綻しやすい。これも感覚だけれど、「好きだし、やってみたいこと」が50-60%くらいであれば、なんとなく自分が向かいたい方向に慣性が働いているのではないかなと思う。

実在

普段はそれほど意識しないけれど、生きることは確かに辛いというか、哀しいというか、そういうことを感じることがある。

それぞれがそれぞれに生きていて、互いに主張があって、何かしらの希望を求めて生きようとしている。そういうことがなんとなく辛く、哀しく感じてしまう。応援したい、もしくは、応援すべきだと思うのだけれど、うまく感情が動かないような感覚を持ってしまう。

 

西田幾多郎の『思索と体験』の中に、「物は種々の関係に入って而(しか)も己自身を維持する所にその実在性を有する」という言葉がある。絶対的に単一であって何らの関係に入り込まないものは、未だ何らの実在性を附与することはできない。真の実在はそれ自身に内面的必然を有ったものでなければならぬ、と。

これは多分に僕自身が空虚だからだと思うのだけれど、僕には内容がよくわからなくて、なんとなく哀しい気持ちになってしまうのかもしれない。自分に内容があれば、他人の内容というものもわかるのだろう。ただ、それがわからないから、人々の希望が揺らぎのように見えて、哀しくなる気がする。

 

「種々の関係に入って而も己自身を維持する」というのは、とても困難だと思う。現実の中に実在する、というのことは難しい。それはつまり、自分というものを知ること、それに徹底することが難しいということだと思う。

人は、というか、少なくとも僕は、自分というものがなかなかわからない。揺らぎも含めて、今ここにあるということがなかなかわからない。それを知ろうとすることが、生きることのテーマだと良いなと思う。

思索と体験 (岩波文庫)

自分

人間には「自我」というものがあって、基本的には自分の思い通りにしたいと思うものだと思う。眠いと思っている時に起こされるとイライラしたり、作業や順序を邪魔されてケンカをしたり、といった感じで、衝突することも多いだろう。

「自」という字には「より」という読み方もあって、何かの始まりであったり、起点や起源であったりという意味合いもある。中国語では「自始至終」で、始まりから終わりまで、という意味になる。

 

この自我というものは、普通の感覚でいうと他者とは切り離されている。「自分」という表現もあって、自らは分かたれている、という感覚なのかなと想像している。自他や彼我という言葉は他者との分断をイメージさせる言葉で、自分と他人は別物であり、かつ、それぞれは独立していることを感じさせる。

そういう気分が二元論であったり、ヘーゲルの弁証法であったりに繋がっていて、彼らの方法では矛盾は対立として記述できて、対立しているということを前提に論理を発展させようとする。これはこれで、とても大切なことである。

 

自分は決して、独立していないと捉えるのが東洋で、それは本質に近いと東洋人である僕なんかは感じるが、他者との繋がりによる存在は曖昧で、論理としても弱くなりやすい。また、繋がっているという感覚から感傷的に過ぎるところも生じて、その点も注意が必要だと鈴木大拙は指摘している。

ケンカを見ると愚かだなと感じることもあるけれど、僕自身もわりとケンカをしてしまうし、それは「自分」がある証拠で、尊いことでもある。衝突は別に悪いことではない。一方で、誰かがいてくれるからケンカができるわけで、自分と他人は別かもしれないけれど、互いによって互いがあるという感覚も大切だと思う。

考える

考える、という行為を考えた際に、普通は何か対象や目的があって、それが解決されればうまく考えられたということになるし、解決されなければ考えるという行為として不備があった、ということになると思う。

例えば、テストの点数であったり、就職活動であったり、日々の仕事や家事であったりにおいて、それが何であるかということを考えると思うけれど、正しく考えられていれば期待した成果や効果が得られる。だから普通は、うまくいったということは正しく考えられたということに繋がる。

 

もう一段階、考えるということを押し進めると、なぜうまくいったのか、あるいはうまくいかなかったのかということを考えることになると思う。うまくいった理由に再現性があれば、次もうまくいく可能性が高いし、うまくいった理由がわからなければ、まだ十分に考えられていないような気がする。うまくいかなかった理由がわかれば、とりあえずはそれを改善するだろう。

そうしていくと、どうすればうまく考えられるのか、に興味が湧いてくると思う。考えるという行為の性質だったり、実際の行動や体験との繋がりだったりを考えていって、知る、という行為が少しずつ見えてくるのではないかと思う。そもそも、うまくいったとは何かも考える必要が出てくる。この段階になると、思考は外というよりは内に向いてきて、己を知るというテーマに近づいてくる。

 

これはベルグソン風に言うと、普通とは反対方向に考えていて、現実に接地していた思考が少しずつ現実から遊離してくる。この思考は必要ではあるが、あまりやり過ぎると精神を病んでしまうので、適度ということが大切だと個人的には思っている。まあ、バランスだろうというくらいの意味合いで。

目的に対しての思考は比較的に簡単だが、その思考はそこだけでは完結しないし、思考のフェーズが変わることに自覚的でないと、考えるということが難しく感じてしまうだろう。自分が何を考えているのか、たまには考えられると良いなと思う。

綺麗な世界

加藤一二三は少年時代にある観戦記を読んで、「将棋には巧い手、いい手というものがあって、いい手を差し続けていけば成功するものなのだ」と受け止め、それが将棋観に影響を与えたという。

また、将棋を始めた頃に詰将棋の本を読んで、「将棋にはすばらしい手がたくさんあって、そのすばらしい手で攻め続けていくと玉を詰ますことができるんだ」と感じたという。詰将棋に取り組むことは、将棋の綺麗な世界という一面を知ることになる、と。

 

こういう比喩は好きではないが、それは人生にも通じるところがあると、個人的には思う。綺麗な世界は、人に生きる根拠を与えてくれる。特に少年少女の時代は、綺麗さを、正しさを、すばらしさを希求するものだと思う。

ただし、実際に生きていくと綺麗ではない世界というのも見えてくる。綺麗な世界を見つめ続ける強い精神は特異な才能で、老いても若いままの美学に生きるというのは、ほとんどの人には不可能だろうと思う。むしろ、綺麗でない世界に絶望する人もいるだろう。

 

加藤一二三は、詰将棋は一生をかけて夢中になるようなものではない、とも言う。「魅力はあるけれども、そこそこのところでけじめをつけたほうがよい」と。

綺麗な世界でないと知った時に、世界はより拓かれていく。世界は完全に綺麗ではないかもしれないけれど、完全に綺麗でないわけでもなくて、その広がりがまた綺麗さを見せてくれることもあると思う。世界が綺麗でないことは絶望ではなくて、希望なのかなと思っている。

ユリイカ 2017年7月号 特集=加藤一二三 ―棋士という人生―

自分の眼

自分の眼で見ることは想像以上に難しいと思う。わかりやすい例で言うと、噂を信じてしまう、噂で印象を持ってしまう、他者の評価をそのまま受け止めてしまうといったことはあまりポジティブではないが、やってしまいがちだと思う。

もちろん、例えば噂には噂の根拠があって、そこにはなにかしらの問題があるはずだが、自分の眼、自分の印象というものを信じた方が、他者との関わりという点では好ましいのではないかと僕は思っている。

 

ありのままに見ることができなかったり、たやすく他人の言葉に左右されてしまったりするのは、ある意味で適応だと思う。他人と同じものを見ているという「気分」が、人と世界を繋いでいる。逆に、見ているものが異なると主張すれば、少なくともその人とは世界を断絶しているというメッセージになるだろう。

世界は情報に溢れて、より適応を求める方向に落下しているように思う。例えば、多様性やマイノリティに対する主張も、アンチテーゼであるとは思うけれど、どちらかというと均質化を求めている。多様性を認めろ、という強制は冷静に考えるとナンセンスだが、人は他人の眼で、自分の眼をアップデートしていかなくてはいけないということかもしれない。

 

「自分の眼」のどこまでが自分の眼で、どこからが他人の眼なのか。他人の眼を気にしているのも、「自分の眼」なのか。

あんまり考えすぎると病気になりそうなので、適当なところで止めておいた方が良さそうだけれど、なんとなくの直観だったり、好きとか嫌いとかいう感覚だったりというものを忘れないことは大切かなと思う。

怖さ

何かを怖いと感じる時、それは何故だろうと思う。特に人というものを怖いと思う時に、僕は何に対して、それを感じているのだろうかと思う。

 

なんとなく、わからないことが怖いような気がするけれど、何がわからないのかは良くわからない。前提として、怖いと感じるのは自分が関心を持っている相手のような気はしていて、僕はその人と良好な関係を築きたいと思っている気がする。そういう人の戸惑っている様子、浮かない顔、不自然だと感じる無言は怖い気がする。

変数、具体的には人の数が増えると不安が増すように思う。人は均衡を求めていて、どこに落ち着くのかがわからない、新しい均衡に移行しなくてはならない、そういう状況は不安を生じさせる。相手が何を求めているのか、ということよりも、そもそも自分は何を求めているのかの方が大切だと思うのだけれど、どうしても他人の目を気にしてしまう。他人の目は常に自分の目で、そんなものは無いと思っていたとしても。

 

僕が怖いと思っている時に、相手も怖いと思っているのかもしれない。だからこそ、自分が大切にしているものを認識して、なるべくしっかりと今を生きることが大切だと思う。怖さというのは伝搬して、相互に大きくなってしまう。疑心に暗鬼が生じると、簡単には戻ることができない。

怖くて、不安だと、頑なになってしまう。頑なさは人を孤独にし、孤独を忘れるためにさらに人は頑なになる。境界がなければ生きていけないが、人はまた、境界によって死ぬものだと思う。

憤り

幼い頃は、自分の目に見えること、自分の感じることでしか世界を理解できず、世界に何かを働きかけることができると思っている一方で、臆病で、むやみやたらと攻撃的で人を傷つけていたと思う。今もやはり人といると、そういうことをしてしまうことがある。

ただ、傷つけたり、傷つけられたりというのはやっぱり嬉しくはなくて、あまり生産性が高いようにも感じないので、他者との境界が争いを生む状態はなるべく少なくしたいなと思う。単純に、疲れる割には大して得るものがないと感じるのかもしれない。

 

人を傷つけてしまう理由はいろいろあると思うけれど、パッと思いつくもので言うと、「自分自身が傷つきやすい」、「他者に影響を及ぼせると勘違いしている」の2点だと思う。どちらか一方が強いこともあれば、双方とも強いこともあると思う。

あまり傷つかずに、他者に影響を及ぼしている気分になれるものとして、コミュニティがあると思う。ディベートやディスカッションという形で、衝突を合理的なものとして置き換えているケースもあるが、個人的には集団というのは人を守るためにあると同時に、人を傷つけるためにあると思っている。コミュニティが良くないというよりは、人というものは、人といるとケンカするものである、というくらいのことかもしれない。そもそも集まるという行為が、他者の排斥を含んでいる。

 

僕は人といるのが基本的には苦手なので、憤りや傷つけ合うことを避ける方法として、なるべく自分が何をどう感じていて、何を美しいと思っていて、本質をどう考えているのかを、他者を交えずに思考することを選びたいと思っている。自分にとって好ましいことであれば、他者がどんなに批判的でも対処できると思えるくらいに思考したいと思っている。きちんと考えていくと、むやみやたらに、なんでもかんでも批判されたり、何もうまく進まなくなったりということは少なくなるのではないかという期待もある。

他者に対して必要なことは感謝だと思う。そして、期待ではないと思う。僕が誰かの期待に応えないように、誰かも僕の期待に応えたりはしないだろうし、応えられても困るだろうと思っている。

健やかさ

健やかに生きるということは例えば、きちんと睡眠を取り、ちゃんとした食事をして、適度に身体を動かし、知恵を求めて、なるべく簡素で清潔にして、欲を薄くして過ごすことだと思う。

人間には自分というものがあって、これがいろいろなものを動かしていく一方で、邪魔をする。本当はぼんやりと、木偶の坊のように生きるのが良いのかもしれないと思うけれど、自分というものが邪魔をする。安心というのは自他不二であったり、無縁であったり、つまり、一切すべてを等しく、斉しく観るというところから現れるのだと思うけれど、偏りがあって、不安があるから人間だという気もする。

 

大切なことは、自分の健やかさがどういうものかを深めていくことだと思う。他者の健やかさを損なわない方が調和的だと直感的には感じるが、攻撃的な人も全体の調和の中で存在している。今があるということは、世界は不調和も調和として許容しているということだと思う。

普通の人は、静かな場所で座禅を組んで悟ることはできないと思う。それは、健やかさを知るためのきっかけにはなるかもしれないけれど、調和は混沌の中にあって、不調和や無秩序を満身で感じることで垣間見えてくるという類のものだと思う。

 

人間というのは不安だからだろう、喧嘩ばかりしている。ただ、外から見るとそう見えるだけで、どちらかと言うと、不安だから寄り添っていて、寄り添うためには喧嘩をしないといけないのだろう。「仲間」みたいなものが好きな人の方が、喧嘩をしているように感じる。

あまり複雑に考えずに、他者も自分も、なるべく疑うことも信じることもしないというのが、僕にとっての健やかさかなと思う。

均衡点

僕たちが今、そうだと感じていることは、基本的には現時点での均衡だと思う。人間関係にしても、ビジネスの競争優位(あるいは劣位)にしても、世の中の価値観にしても、国際政治にしても、様々なバランスによって、今の状態(均衡点)のあたりになんとなく落ち着いているというものに過ぎない。

 

均衡には一定の必然性があって、それが成立している条件、それがもたらしている効用、それが及ぶ範囲などは常に考えておくべきテーマだと、僕は思っている。それは日々を楽しむために大切な知恵だと思う。

均衡は当然、移行する。例えば、あと10億年すれば、太陽は明るくなり、海が蒸発して今の生物は地球上には住めなくなる(もう少し正確には、太陽エネルギーがもたらす海の蒸発が地球を暴走温室状態という、別の均衡へと移行させる)。また、100年前の価値観と今の価値観が、異なる均衡点にあることはあまり議論を必要としないだろうと思う。

 

均衡を成立させている条件とほぼ同義かもしれないが、均衡の移行をもたらす要因を知り、別の均衡の可能性を知ることも大切だと思う。

安定度が高い均衡も、低い均衡もあると思うけれど、すべての均衡はいつか移行する。安心し、かつ、いきいきと日々を過ごすためには、自分にとって基盤となる均衡の安定度を見極めつつ、自分がワクワクするような次の均衡の可能性を探り続けることが大切なのかなと思う。