優越

人間に限らず、生物においては、種の保存に成功したものが現在も存在している。別に、種の保存が生物の目的だという主張ではなくて、単に現象として残ることに成功しているから残っているのだろう、という意味で。

これは任天堂の社長だった岩田聡さんのアイデアだが、残ることに成功したということは、すごく一面的には、うまく他者を出し抜いたというか、「わたしはあなたより優れています」というプレゼンテーションを上手にできたということだろう。

 

それが優越感という形で表現されるか、劣等感という形で表現されるかは時々だが、人間というのはアピールしたいような性質を自然に獲得しているということだと思う。

ちなみに、劣等感という表現形式は、知能からくるのか、集団という競争戦略からくるのかはわからないが、なんとなく人間において顕著という気がする。人間の生存は基本的には集団が前提なので(個では他の生物にすぐに滅ぼされてしまうため)、アピールして、役割や意義を生じさせるのかもしれない。

 

人というのはなにかしら得意なことがあって、それに取り組んでいる時が輝いていて、そして、アピール好きなものだろう。ただ、個人的には自分のアピール好きなところには嫌悪感を抱くし、気分の悪いアピールを見るのは苦手だと感じる。

そういうものだと思っていても、僕の場合はそういうネガティブな感情が生じてしまう。しかし、アピールせずに生きていくのはやっぱり難しい。なるべく気分良く生きられるような在り方であれると良いなと思う。

良い認識、について

問題解決に取り組む際には、まず最初に知覚すること、そして認識することが必要だろう。情報が無いことには、問題にどう取り組んでよいのかを考えることができない。

 

「認識」というのはある程度、哲学的な用語だが、ここでは「私が対象を把握すること」としたい。「認」という字が入っているので、知識に比べると、よりプロセスを意識した言葉だと思う。哲学的には、そのプロセスには主観であったり、精神の作用が必要とされる。

情報工学においては、自然情報処理の1つとして「パターン認識」というものがある。情報の中にパターンを見出して、音声や画像を選別し、意味を取り出す。「音声の自動書き起こし」や「写真を見て、猫だと思う」といったことだが、言語解析であれば対象としている言語や頻出の用語、画像解析であれば教師データと呼ばれるインプットが高精度な認識のためには必要だろう。それもある意味で主観・精神の作用である。

 

ものすごく単純化すると、私たちは常に「ルビンの壺」を見ていると思う。人によって見えるものは異なるし、同じ人であっても気分によって壺に見えたり、顔に見えたりする。そして、それから逃れることは基本的には不可能だと思う。

大切なことは、「少なくとも今、私にはこう見えている」ということを素直に認識すること。同時に、様々な認識をなるべくフラットに意識の上に並べることだと思う。そこに「正しさ」の意識を持ち込むと、途端に事態は複雑になるか、もしくは声の大きい人が主張を押し通すしかなくなる。

 

認識をフラットに意識の上に並べられるかどうかは、気分や体調にも依存する。そもそも「フラットかどうか」は相対的なものなので、認識を繰り返すことでどういう見え方があり得るのか、何故そのような見え方をするのかということが初めてわかる。

どういった認識に対しても、ある意味で保留しておくことで、認識を深めることができる。認識しないことで初めて、認識が可能になる。認識はするものではなくて、し続けるものであるという表現が適切かもしれない。

 

認識は問題解決の出発点だが、認識は問題解決ではない、という点には注意が必要だと思う。言葉は人を縛るので、認識については言葉にしない方が良いと思う。

認識を言葉にすると、意識が問題解決へと移行してしまう。認識を言葉にするのは、認識のプロセスが一定は完了し、意志として問題解決に取り組むタイミングになると思う。

苦痛

苦痛を愛そうとする気持ちは、生を愛していることをごまかさそうという気持ちだと思う。

生きていると苦しいことがある。生と苦痛は切っても切れない。ニーチェ等に顕著だが、苦痛を愛している人は、おそらくかなり自分を愛していると思う。希望と絶望が揺らぐから、生きることができるし、死ぬこともできる。

 

苦痛を愛することも生を愛することも、本質的には同じなのであれば、素直に生を愛せた方が幸せなのではないだろうかと感じる。苦痛の中には取り払うことができるものもあるので、そういった苦痛はなるべく取り払うと、なお良いと思う。

人類は飢えであったり、病であったり、暑さ/寒さといったりをやわらげてきたし、いろいろなものを便利にしてきたと思う。同じように、気分が悪い人との関わりはなるべく少なくした方が良いし、自分を害する情報とは距離を取る方が好ましいと思う。

 

もちろん、できないこともあるし、苦痛を愛することの甘美さにも効用はあると思う。それがどうしてかはうまく言葉にできないけれど、素直に、シンプルに生を愛することは、想像している以上に難しいという問題もある。

苦痛を愛するにしても、生を愛するにしても、大切なことはなるべく自分をごまかなさい、ということではないかと思う。もしかしたら、「愛する」ということが難しいのかもしれない。

強さ、優しさ

現代は、あらゆるものは相対的に語られることから免れない。「宗教的」という言葉は、ある教義がその宗教内において絶対的に扱われがちであるがゆえに、偏執的という意味として用いられる。

議論であったり、思想であったりにおいては正しさを議論することは難しいし、宗教における教義の正しさというのは二次的なもので、心が清らかで、性格が誠実で、行いに偽りがない、という人格や生活に尊敬が抱かれる、ということが本来的で一次的な信仰・宗教だと思う。どんなに言っていることが立派でも、嫌われて、排斥される人はいる。

 

強さ、というのも似ていて、(もちろん特性は議論できるが)どの武道・武術、流派が強いという議論を超えて、強い人は強いと思う。合気道の稽古を集中的にやっていた時期に、「合気道は強いか?」という質問をされることがあったが、強い人は強くて、武芸十八般ではないけれど、様々な研究・工夫を行っている。

理想論ではあるが、道であったり、術であったりに対して真摯で、真面目に取り組むということが強いということに繋がっていくのが美しいと思う。

 

強くて、優しいというのは、ただそれ自体に尊さがあると思う。どう強いのか、どう優しいのかを考えることは、それを確かなものにするために必要な思考・試行ではあるけれど、尊さはただ恐れずに取り組み、強くて、優しいということに宿ると思う。

人間というのは不純だし、いろいろなことが怖くて、思い通りには動けない。なるべく純粋に今を感じることをこころがけていくしかないのかなと思うし、少しでもそうありたいなと願う。

トレードオフ

二元論であったり、トレードオフであったりという考え方は必ずしも好きではないけれど、シンプルでかつ、真実を穿っていると感じる。だからこそ、汎く世の中で用いられているのだろう。

 

人間はとかく、物事の一面を見る。ポジティブな面に執着してしまうこともあるし、ネガティブな面に囚われてしまうこともある。それは多分に、感情のためだろう。事象そのものを見るということは基本的には困難で、人間は過去の経験に基づく、自分の尺度の中でうまく情報を処理しようとする。

怒られたくないと思って取り繕ったり、自分を可哀想だと思って落ち込んでみたり、他者との関係性の中で感情が生まれて、いろいろなことを考える。それはある意味で、生きるための知恵でもある。

 

ただ、事象には常に複数の面があるし、多くの事象はトレードオフという性質を持っている。例えば、「分散投資」という考え方はリスクは小さいが、大きな投資はしづらいし、機動力も落ちる。正社員の雇用は事業環境の変化に対して弱いが、組織へのコミットメントはやはり変わってくるだろう。1人は寂しいかもしれないが、嫌いな人に会わなくてよいのは良い面だと思う。

一面的な見方が自分を救ってくれることもあるし、多面的な見方が自分を救ってくれることもある。見方に正しさがあるわけではないので、「見方の見方」を知るということが大切だろう。その点で、トレードオフという視点は、没頭して行き詰まりそうな時の有用な知恵だと思う。

信じる力

信じるということ、殊に、自分を心から信じるということは大切だけれど難しいことだと思う。

むやみに信じるのではなくて、心から信じるためには、それだけ深く自分のことを知らないといけないし、容易に惑わないような試行錯誤、思索によって、他者を受け入れながら、自らに依って立つ必要がある。

 

何が自分にとって大切であるのかを、なるべくクリアに、シャープに、1点に見つめて、それに身を投じながらも盲目的でない。そういう態度を持てるようになると良いなと思う。

人は簡単に、自分を見失ってしまうものだと思う。批判であったり、称賛であったり、もっと具体的に賞罰や報酬の多寡といったものによって、人の心は容易に惑ってしまう。いろいろなものが無意味で下らないと感じたり、逆に執着を覚えたりして、外のものに惑わされてしまう。現実に対処しながら、自分が大切だと思うもの、信じているものを見失わずに、いきいきと思考して行動するというのは、かなり意識しないと忘れ去られてしまう。

 

実際のところは、何を信じてよいのかはわからなくて、でも、何か尊いもの、信じてみてもよいと思えるものを探し続けていくことが大切なのではないかと思う。信じた瞬間に、やっぱりそれは嘘になるから、信じないということを大切にしながら…。

ものすごく抽象的な話になってしまうし、正確に表現できないもどかしさが強いけれど、意識や気持ちの中に探究するエネルギー、もっと先を見てみようという想い、届かないけれど「真実」と呼べる何かを、つまらないものの中に見出していこうとし続けられないなら、先は短いように感じる。

時宜

時に宜しくある、ということは難しいものだと思う。大抵の判断というのは、状況によって変化するものである。その時においては宜しい、というものである。

お金を使うべき時もあれば、使わないべき時もあるし、仕事をするべき時もあれば、しないべき時もある。寝た方が良いこともあるし、夜更かししても良いこともある。

 

人間の脳というものは、おそらくは概ね記憶で出来ているのだから、基本的には過去を参照して行動する。過去の行動が正しかった、と思っていると、同じ行動を繰り返す。間違ったと思っていると、間違いを犯さないという思考や行動に陥りがちになる。

時宜を外し始めると、思考も行動も混乱してくる。「どうして今、それをするのか」ということが増えてくる。あるいは、「どうして、それが出来ないのか」ということが増えてくる。

 

人間は、その生存・防衛の本能からなのか、ポジティブよりネガティブを記憶として保持しやすい。そういう視点においては、「正しかった」と思っていることの多くは、実は「間違っていなかった」という正当化によって成立しているように感じる。冷静な判断、というのはあまり存在しないだろう。

結果として、どちらかと言うと、人は生きるほどに消極的になりやすい。やるべき時にやれない人間は、何事もおいてもやれない、ということになる。一方で、積極的な人間は時に暴走しやすい。

 

時に宜しくある、ということは難しいものだと思う。物事や自身に対して、なるべく深く、かつシンプルに理解していくということが大事なのではないかと感じる。

秘密

秘密と申しても、無論これは公開したくないという意味の秘密ではない、公開が不可能なのだ。人には全く通じ様のない或るものなのだ。

(小林秀雄 『私の人生観』より抜粋)

現実を生きるという行為の中には、常に理論より豊富な何かが含まれている。現実に畏敬を抱く者にのみ、現実が与えられる。そして、与えられた現実、もたらされた経験は、本人においてのみ観ることができるのだと思う。

 

人にはそれぞれに生き方があるし、与えられた現実を互いに知り合う必要はない。そんなことはそもそも不可能だとも思う。そして、別にそれで良い。

小林秀雄においては、それは文章を書くという行為に含まれる秘密なのだろう。何かに向き合って、何かを大事にして、愛おしいと思って取り組めば、それぞれに秘密が立ち現れてくるだろうと思う。

 

語り得ないから秘密だし、その秘密は自分自身にもよくわからないものである。自分自身にもわからないものは、到底、誰かに明かすことはできない。何かを伝えようとしていたとしても、それは僕にとっても想像に過ぎない。

自分のものにせよ、他人のものにせよ、そういう秘密に想いを馳せることは尊いと、僕は思っている。四六時中、そんな風に想いを馳せることはもちろんできないし、おそらくは望んでもいないけれど、秘密には尊さがあると思う。

都合の良さ

墨子』の貴義第四十七、十五節に、衛という国に仕官させた人が帰ってきてしまったというエピソードがある。話を聞くと、「行ってみると話が違った。はっきりしなくて、確かでない」、「千金(原文では「千盆」。盆は量の単位で一盆は二鬴、一鬴は六斗四升という)を与えると言っていたが、その半分しか与えられなかった。確かでないから、帰ってきた」と言う。

それに対して、墨子は「あなたはもし、千金以上を与えられたら帰ってきましたか?」と質問する。それには「いいえ。帰ってこなかったでしょう」と答える。もしそうだとすれば、「あなたが帰ってきたのは、確かでなかったからではない。報酬が少なかったからです」と墨子が諭すという話である。

 

人間は、自分が正しいと思っていると、自分の都合で物事を解釈してしまう。都合の良い時は受け入れるが、都合の悪い時は相手を批判する。そうなると、義は失われてしまう。

義というか、正しさというか、そういうものを以て生きるというのは、そんなに簡単ではない。無私でなくてはいけない、というのはあまりに教訓めいているし、「無私」という表現自体が「私」を強く意識しているから出てくる言葉だろうと思う。無私はそれこそ、難しいと思う。

 

僕も含めて、ほとんどの人間は「私」を強く持っている。多少なりとも他者と対話したり、世界や現実に向き合って思考したりするための方法は、自分がどれだけ「都合」で生きているのか、自分の身勝手な「都合」がどういうものなのかを少しでも自覚することなのかなと思う。

良くも悪くも、人間はご都合主義で、都合良く生きている。そうとしか生きられないし、ある意味では、そうであるから生きていられるとも思う。

均衡のデザイン

諸行無常、万物流転などといった表現を引くまでもなく、事物は変化を続けている。デザインするとはつまり、多くの場合においては「均衡をデザイン」することである。

 

ボストン・コンサルティング・グループの設立者で、会長を務めたB.D.ヘンダーソンは戦略を「競争の均衡関係」として考えるというアイデアを、『経営戦略の核心』において提出している。現在の均衡関係を崩して、より有利な均衡関係をつくりなおすのが見事な戦略である。

戦略という考え方が軍事行動を参考にしたものであるため、ビジネスにおける戦略論においても、しばしば「選択と集中」という表現が用いられる。これはつまり、自分の強みを相手の弱みにぶつけることによって、勝利を得ようとするものである。もちろん戦略目標に依存するが、「いつまでも続く作業」である企業経営においては「均衡関係」をデザインすること、および、その移行・維持に伴う打ち手の束を戦略の全体像と捉えた方が合理的であろうと思う。

 

デザインする対象の硬さ・柔らかさによって、均衡があたかも静止のように見えることもあるだろうが、どんな対象も永遠でない以上は「均衡をデザイン」しているという意識を持つことは大切だと思う。静止とは、単に扱おうとしている対象の変化と時間を比較した際に、変化を十分に無視できるという近似を許しているに過ぎない。

変化を意識することで、その均衡が持つ意味であったり、その均衡を可能にしている要因、重要な変数、可変性であったりといった情報に触れることができる。

 

なぜ均衡であったり、変化であったりを意識することが重要かというと、「より良い均衡関係をつくりなおす」ことがデザイン行為において非常に困難、かつ、極めて重要であるから、である。デザイン行為を「適合の発見」と捉えると、現実には到達しえないかもしれない理想の適合に向き合い続けることに、行為の尊さと要諦があると思う。

うまくいっている時に、デザインを再検討することは難しい。そんな必要はないと感じるし、あまりに疑いの目を向けてしまうと、日々の活動に支障をきたす。一方で、デザインが破綻し始めると、それはそれでそれどころではなくなる。常に見直さなくてはいけないことは明らかなのに、見直す余地がないようにも感じる。

 

B.D.ヘンダーソンの表現を借りると、「現在を成立させている原因を完全に把握しなくては、将来を生み出せない」ということになる。完全に、という表現はいかにもコンサルタントらしいが、理想としてはそうだろうとも感じる。

好みの問題ではあるが、デザインはなるべく適合がシャープであると同時に、適合の範囲が広い方が好ましいことが多い。また、デザインされたものは残っていく以上、デザインは常に将来のためにある。そう考える時に、デザインとは時間的に連続したものであり、この瞬間のデザインは何らかの均衡関係であるという捉え方は大切だと思う。