憎しみ

人なので、人を憎むことがある。恨むことがある。

どんな時に憎しみが生じるのか、恨みが生じるのかというと、欲しいものがある時に、だと思う。なぜ、自分のものにならないのか、自分は得ることができないのか。そう思う時に、憎しみであったり、恨みであったりが生じる。

 

憎しみや恨みは、欲望の裏の顔だと思う。憎しみや恨みは、欲望と仲良しだと思う。そして、欲望は人と仲良しだと思う。

憎むと惨めで、憎まれると悲しい。ごく正直に、そう思う。だから、なるべくなら、欲望に触れずに生きたいと思う。強い欲望を持てることは1つの才能だとは思うけれど、欲望に触れられてしまうのは、自分の未熟さだと思う。愚かだから、憎しみや恨みに触れてしまう。それを振り返らなくてはいけないと、そういう夜は、そう思う。

 

悲しいという気持ちは人間にとって、たぶんとても大切だと思う。自分の悲しさを認めないと、受け入れないと、誰かの悲しみに想いを馳せることができない。悲しみを受け止め合うことは、たぶん、人間にとって大切だと思う。

一方で、具体的な処理については、なるべく合理的に考えることも大切だと思う。どんなに悲しくても、前に進んだ方がきっと良い。それぞれの個人が、それぞれの組織が前に進もうとする力もまた、人間にとっては欠くことができないだろうと思う。

おもいやり

なんとなく、「おもいやり」があった方が幸せなのではないだろうかと思うことが最近、増えたように思う。能力は大切だし、お金も大切だと思う。ただ、おもいやりもあった方が良いと思う。

 

僕自身は、今もそうだし、過去は今以上に、おもいやりに欠ける人間だという自覚がある。人を傷つけることが多いし、人を傷つけたことを悲しいと思うわりには素直になれない。どちらかというと、関わりを煩わしく思ってしまう。

過去より少しはましになったと感じるのは、自分が持っている能力もお金も大したことはない一方で、十分にありがたいくらいには恵まれていると思うようになったからだと思う。

 

要するに、僕はとても普通であると思う。普通だから、とりたてて徳も人望も無くて、たぶん、僕が思っている以上にいろいろな人のおかげで幸せだと思いながら生きている。

その総体を支えているのは、おもいやりに依るところが大きいと感じるようになったように思う。今はまだ、能力も大切だと思うし、お金もあった方が便利だと思う。人を憎く思うこともあるけれど、もっと衰えてくれば、まごころだったり、おもいやりだったりに依って生かされているという感覚はより強くなるような気がする。

 

生きる意味はもちろんわからないのだけれど、何かしらを考えながら、工夫していきながら生きていく気力を持てると良いなと思う。

問題解決における人間の存在について

的(まと)を定める、ということは思っている以上に難しいと思う。

内面生活での問題はもちろん、自身の中に的を定めていくこともあるだろうと思うが、日々の中で処理すべき問題の的は通常、自身の外にある。本来、関心を持たれるべきは問題それ自体なのだが、人間はその問題に関わっている人に関心を向けやすい。人は、人に関心を持つように設計されているのだろう。

 

なぜ人は、それほどに人が気になるのかという問いは、それはそれでとても興味深いが、ここでは問題解決という文脈における効果について考えてみたい。

問題解決において、それに関わる人々の間に信頼があるかどうかは大きな影響を及ぼす。人は問題解決において、人為を感じているのだと思う。個々人の問題解決という行為への関わり方に、善意や悪意といった感情を見出しているのだと思う。そして、そういった感情が問題解決という行為を複雑なものに感じさせてしまう。そういう意味で、問題解決を業務委託するコンサルティングというモデルには、一定の合理性がある。

 

使い古された言い回しではあるが、「何を言うかではなく、誰が言うか」。通常は、「自分が言っても誰も聞いてくれない」「あの人が言う通りにしかならない」といった文脈で使われるが、人の心を油断させて、本音を引き出すという効果もある。

人間は相手を見て、攻撃的になったり、臆病になったりするので、攻撃的な面(いわゆる本音)を引き出そうと思うのであれば、その人のそういう面を引き出しやすい環境を作ってやれば良い。

 

ただ、最後は結局、「問題解決」という1点に神経を集中させることが大切だと思う。問題解決というテーマにおいて、人間の存在は制約であったり、ファクターであったりに過ぎない。もし、問題解決の中心に人間がいるのであれば、それは「その人間が問題解決のテーマ」であるということだと思う。

人間を見つめなければ問題は解けないが、人間だけを見つめていても問題は解けない。見つめられた人間は、自分と問題を混同しやすいが、問題はあくまで問題であるという感覚が、解決に繋がっていくと思う。

私心

世の中に、たぶん真実は無い。あるとすれば、それは自身の中に、だと思う。要するに、信じるか、信じないかということだと思う。

他者を信じない人間は、他者から信じられることも難しいと思う。他者と関係性を構築するために大切なことはいろいろあるとは思うけれど、少なくとも、「思いやりを持つこと」と「認めること、信じること」は重要だと思う。

 

他者を疑う人間というのは、自分に対して疑念があるように思う。自分を信じることができないから、他人も疑ってしまう。自分を信じていないから、常に自己を利すことを考えてしまう。

嘘を吐いて、自己を利す人間は、多くの場合は「私心」を持っていると思われてしまう。私心を感じると、ますます他者からは信じてもらえなくなる。

 

物事を小さく捉えると、思いやりを持つこと、他者を信じることは難しくなるように感じる。自然においては「天」、集団においては「公」を見据えることで、1つひとつの事象や人物に拘泥せずに済むのではないかと思う。

興味深いのだが、「みんなのためにやっている」と主張する人は、「私心」を持っていると捉えられやすい。おそらくは、個々の要求を潰すために「みんなのため」という論理を振りかざすからだろう。天や公を利すことと、個々の事象や人物を利すことが矛盾しないような生き方をして初めて、器が大きいと言えるのではないかなと思う。

冷静さ

このところ、冷静さを失っているなと思う。「冷静でない」というのは、もちろん様々な側面があると思うが、判断基準の優先度が混乱している状態ではないかと思う。

そういった場合は大抵、疲れているので、判断基準に対する批判に対して、正しく批判として捉えられず、非難だと感じてしまうのも問題だと思う。

 

捨てないと、大切なものを見失う。自分は持っているという感覚が、冷静さを失わせる。大切なものは持たないか、たぶん、1つくらいで良いのだと思う。

人間なんてものは、最初から捨てられているものだと思う。「捨てられるのが怖い」というのは、集団でしか生きていくことができない人間の、壮大な妄想なのだと思う。

 

「頓着しないようにしよう」と思っている時点で、大いに頓着していて笑えるが、おおらかで空っぽの、巨きな器に憧れているのは事実だと思う。好みの問題だが、拘っている人は醜いと僕は思っている。本当に美学のある人は、他人に対して拘ったりしないはずだ。

人間の1つの性質として、やっぱり人と生きていく必要がある。人と生きていくためには、ある種の強さはやっぱり必要だと思う。晒されるから弱いけれど、晒されるから強くあれる。晒されていないと、強くあるのは難しい。

やわらかい悲劇

悲劇は、やわらかく描かれることで悲しさが高まる。そんな話を教えてもらった。もちろん、その人の感覚なので、一般的にそうなのかはわからないけれど、僕もなんとなく、そうだなと感じた。

 

現実は厳しいと言ったりするけれど、実際には真綿のような苦しさだと思う。氷で閉ざされた地域や砂漠に生きる人は違う感覚を抱くのかもしれないけれど、少なくとも日本の比較的、温暖な地域に住んでいるとそう思う。

悲劇は終わらない。終わらないから悲劇になる。どうしようもない。それが悲劇だと思う。進むことも、退くことも、生きることも、死ぬことも、どれも困難である。ただ、今がある。

 

多くの場合に想像するように、悲劇は人を刺し殺すようなものではなくて、真綿で首を絞めるようなものだと思う。そのやわらかさが、苦しくて、悲しい。そのやわらかさが、人を絶望させようとする。絶望したくない、と思えば思うほどに。

多くの人は、それに対して、どうやって対処しているのだろうかと思ったりする。たぶん、きちんと食事を摂り、早寝早起きをして、お日様を浴びる。そんなことなんだろうなと思うのだけれど…。

平坦な世界

平坦な世界ではどこにでも行ける。どの方向にも特別な意味がない。途方に暮れると見ることもできるし、自由であると見ることもできる。

世界は、平坦で滑らかになりつつあるように思う。自分においてのみ、かろうじて、自分が「特別」である可能性は残っているかもしれないけれど、世界において「特別」であったり、「代替不可能」であることは望みようがないと感じる。

 

How McKinsey Destroyed the Middle Class“に、管理の精度が高まることで中間管理職、結果として中産階級がいなくなるという議論があり、興味深いと感じた。

さらに「The gig economy is just a high-tech generalization of the sub-contractor model」という。UberやDiDiのドライバーは、優れた高級ドライバーになることはあっても、ドライバー以上には絶対にならない。Amazonの配送業者は、永遠に配送をし続ける。連続的な中間が存在しない、究極的な下請けモデルだからである。

 

たぶん、人は計画と管理を求めてきた。同時に、平坦さは1つの夢だったのだろう。そして、計画的な資本主義は、結果として社会主義に似た平坦な社会を実現しているように思う。

別にポジティブでも、ネガティブでもないし、おそらくは適度に競争があり、適度に平等な、好ましい社会であるようにも感じる。もう、戻ることもないとも思うので、その平坦さを見つめていかないといけないなと思う。

指摘

自己満足に過ぎないのだけれど、自分がなぜ、どういう想いで、どういう思考で、どういう行動を取っているのかについて、自分なりに捉えておくことは大切だと思う。

他人は自分ではないので、自分の行動の原理や内容はわからない。わからないからなのかはわからないのだが、自分の行動に対して「間違っている」という指摘は日常的に受けるものだと思う。

 

間違いを指摘すると、それ自体が「間違っている」と指摘される可能性がある。間違いを指摘する人は、多くの場合、間違いを指摘されるのが怖いから間違いを指摘しているので、「自分が間違っている」という状況を避けるために「みんなが言っている」という表現を好む傾向がある。

まったく不便なものだが、間違いを指摘されると、人間は反射的に動転してしまう。「みんなが言っている」と言われると、みんなが敵のように見えてくる。仕組みがわかればなんということはないのだが、陥りがちな罠だと思う。

 

正直なところ、他人が僕のことを「間違っている」と思うかどうかについて、僕はあまり興味がない。僕は僕でしかないので、出来る範囲で、想うようにやるしかない。僕は僕のことを正しいとは思っていないけれど、仕方がない。

僕は間違いを指摘されること、その指摘によって自分の感情や思考、行動を捉え直して、修正できるところがあれば修正する、ということが嫌いではない。そもそも、興味がない他人からの指摘をすべて聞く理由もないので、自分の感情・思考・行動へのインプットとして捉えて、適切な範囲で処理するのが良いのかなと思っている。

視界

確からしい結論を導くために多くの情報が必要なのかというと、必ずしもそうではないと感じる。

もしかしたら、判断できる範囲においては、情報量と結論の確からしさは比例するのかもしれない。一方で、情報を多く保有し過ぎて、どのように考えて良いのか分からなくなる、ということもある。

 

人間というのは案外に不便なもので、何を見るのかということについて、かなり意識しないとコントロールできない。かつ、それを完璧にコントロールすることは不可能である。

真剣に考えようとすればするほど、見ようとしてしまう。しかし、見たものからの情報の受け取り方を制御することは困難なので、大事なことは「見ないようにする」ことだと思う。大抵のことは、見ていないからどうにかなっている。

 

いざ追い込まれた時に「見ないようにする」ためには、普段はむしろ良く観察し、なるべくシンプルでクリアなビジョンを得ようとすることが大切なのではないかと思う。焦っているタイミングで物事をシンプルに、クリアに捉えることは極めて困難で、通常は視界は煩雑さを増し、情報処理は混乱する。

渦中にはいない、経験の豊かなアドバイザーが近くにいれば、そういった方に話を聞くのも良いと思う。剣を振るいながらは、戦局はなかなか見えないものである。

 

経験は視界を更新してくれる。嵐が去った後には、そこで見たものを自分なりに捉え直し、自らの視界がより研ぎ澄まされていくと良いなと思う。

変換器

人は嘘をつく。意識的に、というより、驕りや懼れといった情動により、脳が無意識に処理しているケースも多いと思う。自己の人格を維持するために、必要な反応だろう。「嘘」とは実は自身の中には無くて、他人の中に見出してしまうものなのかもしれない。

同時に、人は他人の言葉を正しく捉えることはできない。こちらも、驕りや懼れといった情動によって、また、自身の思考空間の狭隘さによって、「きっとこうだろう」という認知を、「相手はこう言っているのだ」と認識してしまう。

 

ある友人は、「人と人の対話の間には、変換器がある」と言う。とても優秀な友人で、100人くらいの会社で経営と執行に取り組んでいる彼らしい、実践的な理解だと思う。

変換器のせいで、言葉はうまく伝わらない。変換器が存在する前提で情報を伝えるためには、相手との信頼係数が高い状態が必要だが、信頼係数は有限で、それを不用意に消費して無理やり情報を伝えると、次回の情報伝達は困難になる、と。世の中で言われる「心理的安全」みたいな概念も近い何かを表現しているのかもしれない。

 

まったく悪い意味ではなく、僕は人は嘘をついてしまう存在だと思っている。加えて、どんなに正確に言葉を紡いでくれたとしても、それを理解する能力は少なくとも僕にはないので、仕方がない。実務上は別に嘘でもなんでもよくて、相手と取り組むと決めた物事が進むことが大切だと思う。要はどれくらいの嘘なのか、どれくらいの隠し事があるのかを現実に問題が起こらない程度に見定められれば良い。

同じ構造で僕も嘘をついているはずなのだけれど、自分がなぜ、どのように嘘をついているのか、ついてしまうのか。そのあたりはもう少し知りたいなと思う。