生命

たまたま、生命、ということについて考えるきっかけがあった。考えた、といっても、自分の頭できちんと考えられたわけではなくて、そういうことを問題意識を持って考えてる方と立て続けに話をさせていただく機会があって、刺激をもらったということなのだけれど、久しぶりに深く思考したいという気持ちを抱いた。

 

僕はとりあえずのところ、僕は生きているのだろうと思っていて、僕の問題意識はそこから発している。生きていて、どうも積極的に死ぬことはなさそうな僕という存在が、ここに存在してしまう構造に関心がある。僕は確かに「僕」だけれど、それが僕である必然性はない。別に僕でなくても良いのだけれど、「僕」が存在しているというのも興味深いと思う。

化学実験にMiller–Urey experimentというものがあって、その実験では生命が地球上で発生する可能性が示唆されているが、地球外から来たという仮説もある。また、複製における突然変異と淘汰が進化を促すという考え方は有名で、その考え方では基本的には徐々に複雑な生命が生じるように感じるが、Stuart Kauffmanは非平衡系における動的な秩序化によって、生命は最初から複雑な形で生じるという可能性を指摘している。

 

また、生命もしくは意識は時間との関係が深く、Edmund Husserlの「内的時間」というキーワードや、Martin Heideggerの『存在と時間』は、そういう感覚を示したものなのではないだろうかと想像している。僕らが普通に考える「時間」はいわゆるニュートンの時間で、あらゆる系において均質で、等価で、一方向的だが、それは時間発展方程式のために発明されたツールに過ぎなくて、相対性理論は時間の異なる性質を提示している。

どの学問もまじめに学ばなかったことを反省すると同時に、あらためて本棚を漁ってみたいなとも感じた。たまにこういう機会があることは、とてもありがたいことだなと感じる。

断罪

「断罪」とは、罪があることではなく、罪があると決めること、処刑を行うことである。そして、世の中にあるもののほとんどは、罪ではなく断罪だ、と思う。

不安な人ほど、断罪をする。断罪は不安による支配のためのテクニックでもある。不安な人が、不安を利用して、人を支配する。

 

僕自身も、断罪する誘惑に囚われそうになることがある。断罪されることの不安や恐怖に囚われそうになることがある。しかし、断罪とは罪ではなく、誰かがその人自身のために押し付けてくる決めつけに過ぎない。そんな人とはいたくないし、僕自身の判断への評価を不要にぶらしたくはないと思う。

完璧な人、完璧な事象というのはそうは無いと思うので、評価の構造の中には必ず断罪がある。断罪という言葉が強過ぎれば、意味づけとか、価値づけという言葉もあるかもしれないけれど、本質的にはそこまで変わらないように思う。もちろん、バランス感覚は大切だけれど、究極において判断を何かに委ねる危うさが、そこにはあると思う。

 

そんなことを僕が考えるのも、そういう行為に囚われる危うさが僕の中にあるからだと思うし、逃れたいと思っている内は逃れられないものだろう。常に価値判断は必要なのだから、合理的に考えるのが大人だという話もあると思う。

そういう意味では合理的な範囲内で合理的に断罪する分には、それほど嫌悪を抱かない。合理的な断罪というものは、広く合理的な目的のための手段であるべきだと思う。非合理に思える目的に、さも合理的な断罪を用いることを避けたいということかもしれない。

愛憎

恋人であったり、同僚であったり、そういったパートナーとの関係性を考えたときに、相手に暴力的な振る舞いをしてしまうという例はそれなりにあると思う。

DVやハラスメントというところまではいかなくても、信頼を築きたいのか、支配をしたいのか、良くわからないような態度というのは日常的に見かけるように思うし、僕自身、気を付けなくてはいけないと感じることは多い。

 

「沖沖士の哲学者」とも言われるエリック・ホッファーの言葉に、

われわれはある人の愛情を獲得したときよりも、その人の精神を打ち砕いたときに権力意識を強く感じる。ある日、愛情を手にしたとしても、それは翌日には失われるかもしれない。しかし、誇り高い精神を打ち砕くとき、我々は最終的かつ絶対的なことを成し遂げたことになる。

というのがある。ずっと在り続けるより、破滅の方がずっと楽そうに思えるということだろう。その善悪は時々ではあるが、在り続けることの尊さより、失うことの甘美さを僕たちは選んでしまうことがある。

 

今を大切にするためには、明日を信じる力が必要だと思う。明日への期待を持たずに、只今を生きられるとすれば、それは悟りの境地で、もちろん理想はそこにあるけれど、少なくとも僕にとってはまだまだ修養が必要だろう。

愛とは明日への信頼であり、憎しみとは明日への絶望なのかもしれない。本質的にはどちらも盲信ではあるけれど、とりあえず日々を生きるには愛を大切にできた方が良いのかなと思う。

何者か

生きていると、「あなたは何者か」という問いをしばしば突きつけられる。他人はもちろん、自分自身が問いかけてくることもある。

僕にとって自己紹介はかなり難しい部類の行為で、何を言っても嘘だと感じるし、相手に何かを伝える必要なんてあるのだろうかという想いがすぐによぎってしまうので、態度もしらじらしくなってしまう。

 

僕は、何者かになりたいと思っていないのかもしれないということを思う。ただ、何者かでないと不便だということも同時に思うし、何者かであった方が楽そうだということも思う。

年齢や居住地、家族構成などはとりあえずは事実らしい情報なので説明可能だけれど、あまりに意味が広すぎるように思うし、何が得意とか不得意とかは、あまりに主観的で確信が持てない。何が好きで、何が嫌いということはまだ真実に近い感じがするけれど、それは僕にとってしか意味がないように思える。

 

ただ、普段はこの問題は僕の内面においてはそれほど問題にならない。たぶん、自分が何者であるかという問いに対しての関心が薄いのだろうと思う。僕にとっては、僕は僕で良いし、そうでしかあれない。問題になるのは、他人が(おそらく大して関心もないし、理解するつもりでないにも関わらず)「何者なのか」を問うてくることだと思う。

人は、その人が何者を名乗っているか、ということにしか関心がないとすら思える。そして、そういう妄想をするにつけて自分は社会に対して適合的でない、もしくは社会は僕にとって適合的でないということを思う。

トラウマ

僕はわりと意識的に、「できるはず、かならずできる」と思うようにしている。万が一、できなかったとしたら、それは僕には向いていないし、心を病ませるようなことはいずれにしてもやらない方が良いだろうとも思うので、反省しつつも少しずつ距離を取ろうとする。

僕の心は少なくとも他の誰かのものではないだろうし、それを惜しむのも僕くらいだろうと思うので、僕くらいは僕の心を大切にしたいと思う。できることなら、なるべくサスティナブルな環境で生きていきたいというのもある。

 

先日、ある興味深い話をお聞きした。その方は若い頃に仕事で、その時点での経験や能力では処理しきれないようなクライアント向けのレポートを、明日までに1人でやらざるを得なくなったという。プロジェクトリソースは逼迫して、上司や先輩も手を貸す余裕がなく、結局そのレポートは完成しないままで本番を迎えてしまったそうだ。

それから、その方は「仕事を間に合わせること」ができなくなったという。「どうやっていいのかわからなくて、時間もない」という状況になった時に、混乱が先に来て、手が進まなくなるのだという。その話をお聞きして、これは能力の問題ではなく、トラウマの問題だなと思った。

 

僕は恵まれていることに、「できるはず、かならずできる」「できることしかできないので、できるところまではやってみよう」と今のところは思うことができる。考えればやり方が少しずつ見えてくるはずで、時間内でどこまでの品質が出せるかはわからないけれど、(怠惰な性格は反省すべきところが多いけれど…)できることをできるだけやろうと思うことができる。それは途方に暮れた時に助けてくれた友人や先輩、先生のおかげだと思う。

ただ、いつできなくなるかはわからないとも思う。だから、もっと考えるということを深く知らなければならないと思う。

失敗

心理的安全、というとあまりにも陳腐かもしれないけれど、間違えることが妙に怖くなる時期というのがある。そういう時期に入ってしまうと、いろいろなことが楽しめなくなって、恐れてばかりというモードになってしまう。

 

少し前に、まさにそういう感覚に陥ってしまって、自分は楽しむのが苦手だなあと思っていたのだけれど、冷静に考えてみると、僕はわりと失敗も成功もどうでもよいと思えるタイプでもあって、ダメなら修正してまたやるかあというくらいの人間だったなということを思い出した。

とても間抜けだけれど、そういえば、「世の中にはできないことしかないし、失敗するくらいの方が楽しい」と思っていたことを思い出したというわけだ。そもそも、「論理的に考えて、正しさは存在しない」と僕は思っている。思い出したことで、ちょっと気が楽になったような気もする。

 

その一方で、どうしてそんなに怖くなってしまっていたのだろう、とも思った。まあ、少し忙しくなったくらいで平気で周囲に当たり散らしてしまう程度に人間は小さいので、不思議でもないのかもしれないが、もう少し落ち着いて、日々を楽しみたいなと思った。

新しい刺激というのは、人を防衛的にしてしまうものなのかもしれない。ただ、周囲にいる数少ない人との関係をそれで壊してしまうのも悲しいので、なるべくなら、楽しむ気持ちは忘れずに過ごしたい。

純心

純粋とか純心とかというと、なんとなくポジティブなもの、たとえば好奇心や志であったり、尊敬や愛情であったりをイメージしやすいと思う。

もちろん、理想は人の心の透明度を高くし、ピュアにするものの1つだけれど、理想に心身を没頭させ続けるというのは普通の人には難しいとも思う。多くの場合、人の心をピュアにしているものはむしろ劣等感や悲しみ、恨み、憎しみなのではないかと思う。

 

「臥薪嘗胆」という言葉があって、屈辱を忘れずに努力し、復讐を果たすという紀元前の呉越戦争を基にした古事成語だが、呉王夫差も越王勾践も、復讐を果たした後はともに讒言を信じるようになり、忠臣を殺したり、追放したりするようになって、国を亡してしまう。英雄の心をはかることはできないけれど、彼らの心は恨みによって純化し、恨みを失ったことでその透明さは失われてしまったのではないかとも思う。

敵に対しては心を1つにできるが、敵がいなければ手を取り合うことは難しいというのもある。そういう形でしか結束できないということは、少し誤れば、互いに疑心を抱きやすいということもあるのかもしれないし、戦いという興奮は敵味方を問わず、反応してしまうものなのかもしれない。人間の脳では闘争ニューロンと生殖ニューロンは隣り合っていて、かつ、20%程度は重なっているという研究もある。

 

いずれにしても、なるべくシンプルに生きるということが大切だと思う。人間というのは自分の思考に囚われる生き物、自分の考えに飲み込まれる生き物だろう。理想であれ憎しみであれ、要は思考をシンプルにするから心を純粋にするのだと思う。

印象

2年くらい前に上野の東京都美術館で「コートールド美術館展」という展覧会が開催されていて、本当に偶然に訪問した。「魅惑の印象派」という副題がついていて、モネやセザンヌ、ドガ、ルノワール、マネなどの有名な絵画を一気に見ることができる、とても良い企画だった。

前提として、僕はまったく美術に詳しくなくて、「印象派」というものがモネの『印象・日の出(Impression, soleil levant)』を起点としていること、それらが近代・現代の美術の出発点であることなども知らずにぼんやりと眺めていたのだけれど、「印象派というのは、印象を描くということなのだな」という感想を抱いた記憶がある。人間の認識であったり、それこそ印象であったりに関心を持っていた時期でもあったので、感じるところがあって、記憶にも刻まれているのだろう。

 

なぜ、「コートールド美術館展」について思い出したかというと、エリック・カンデルの『なぜ脳はアートがわかるのか 』を読んでいたからである。この本には「現代美術史から学ぶ脳神経科学入門」という副題がついていて、現代美術の還元主義的な試みと、脳における情報処理を還元主義的に解明しようとする脳神経科学が、対比されながら語られていく。

印象派というのは、細部の輪郭ではなく、全体の印象で対象を捉えることを特徴としていて、絵筆に自由に絵の具をのせて描くらしい。人間が何を見ているのか、という問いに対して、その要素に迫ろうとした新たな挑戦だと思う。この問題を提起したこと自体がきわめて重要で、問いに気付いたことでフォービズムやキュビズム、モンドリアンのような現代芸術に繋がっていく。モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』(Broadway Boogie Woogie)はたしかにブロードウェイ・ブギウギで、人の認識の不思議さを感じる。

 

一方で、印象というものは一度持ってしまうと、なかなか逃れづらいもので、その点は注意が必要だと思う。印象はとても大切だけれど、自分の印象は常に疑わなくてはならない。僕自身、つい印象で思考や行動をしてしまいがちで、それは必ずしも悪いことではないのだけれど、戒めなくてはいけないことも多いなと思う。

幻想

僕たちが普通に見ているものは、脳が描いた幻想(ファンタジー)だという。それが儚い、とかいうことを主張したいわけではなく、物事をそのままに見ることはできないというシンプルな事象の話である。

一方で、僕たちは「あれはリンゴである」とか、「コップに水が入っている」といったことを驚くほどの一致を持って、身近な人と共有ができる。まるで同じものを見ているように、だ。

 

脳の機能としては、「それが何か(What)」を処理するストリームと「それはどこにあるか(Where)」を処理するストリームは別の回路として、並行して処理されるらしい。

境界に関する情報と、位置に関する情報が統合されて、記憶に導かれて、僕たちはあるものを見る。そんな風に考えると、他人とわかり合うなんてことは土台無理としか思えないのだけれど、僕たちはなんとなく、何かを共有して生きている。

 

視覚の話ではないけれど、例えば、好きな人と手を繋ぐと触れた箇所がたしかにぴたっと吸い付いているように感じる。晴れて気候の良い日に芝生に大の字になって寝転んでいると、青い空が頭の中に流れ込んでくるような感覚を覚えることがある。

僕たちはそういう幻想に生きているし、そういう幻想を描けなくなったら、人生は少し寂しいものになってしまうように思う。

積木

正義は、積み上げられた積み木の、パーツのどれか1つのようなものだと思う。

例えば、積み木でお城を作ったとして、その1番上にはある「積み木」がある。それを掲げて、人は「これが正義だ」と言う。あなたもこの「積み木」を積みなさいと言う。ただ、その「積み木」の存在は、その下に積まれたたくさんの積み木たちによって成立している。どれか1つの積み木の位置が少しズレただけで、お城は簡単に壊れてしまう。

 

もちろん、「正義」と呼ばれるからには、その積み木たちはコンクリートで塗り固められていたりもするだろう。1つや2つの積み木を抜いたからといって、容易に崩れることはないかもしれない。ただ、まったく土台がないお城の屋根を作ることはやはりできないだろう。

そう考えると、すべてとまではいかなくても、かなりの文脈を共有できていなければ、正義は共有できないということになる。現実世界では、文化や価値観、経済的な環境、地理的な環境、…といった様々な文脈が存在している。そして、どれか1つが共有されていないだけで、簡単に争いが起きる。共有されている気分の人たちが正義を語り、共有されていない人たちは批判される。ずいぶんと滑稽だと思う。

 

だから、正義なんてものは無い、と僕は思う。あるのは、好きか嫌いか、だ。争いはたいてい、好き嫌いの話だと思う。ただ、人間は群れる生き物だからなのか、仲間を求めて、正義を作る。疎外しなければ、分断しなければ、仲間になれない。

どうすれば他者と繋がれるのか、僕にはしばしばわからなくなる。疎外したり、分断したりしてまで仲間が欲しいのか、ときどきわからなくなる。世界が積み木の作品展だとすれば、できることなら積み木の声に耳を澄ませて生きてみたい。