価値観の集合と選択

社会というのか、集団というのか、そういうもので生きる以上、それを成立させる秩序が必要だと思う。『CODE』の中で著者のローレンス・レッシグは、以下のように記している。

ふつうは、競合する価値観集合を記述して、その中でどういう選択を行うかを記述すると、その選択は「政治的」と呼ばれる。それは世界がどのように秩序化されて、どの価値観が優先されるかという選択だ。

(ローレンス・レッシグ 『CODE VERSION2.0』(日本語)より抜粋)

集団においては、価値観の選択をもたらす活動が権力と結びつきやすい。と言うよりも、価値観の選択は権力そのものに近い。政治はもっとも顕著なもので、経済もそうだと思う。

 

価値観は一義に決められるというよりは、均衡点・平衡点が決められるという方が正確だと思う。権力が常に、すべての場所において発揮されることはないのだから、権力を持つ者が見通すべきは均衡になる。逆に言うと、現在の均衡から新たな均衡への移行を為せることが政治であれ、経済であれ、権力者に求められる才覚になるだろうと思う。

一方で、個人の人格は自由で、秩序に対して配慮は必要だが、(一定の範囲内であれば)どのような選択に対しても安全であった方が好ましい世界であるように感じる。それはつまり、あまりに均質的で、かつ、それが強制的だと生きづらいということかもしれない。

 

世界はミクロで見ると非平衡状態で、マクロで見ると平衡状態だと思う。非平衡の擾乱は常に存在するが、その擾乱が拡大することでマクロの平衡状態が移行するということかもしれない。

今日を生きる方法

生きていると不安を感じる。今日を大切にしよう、と言われても、そんなことはできないと感じる。

 

「今日が人生最後の日だと思って生きる」、という言葉があるけれど、それは「逆」だとピーター・ティールは説いている。

“Live each day as if it were your last.”

The best way to take this as advice is to do exactly the opposite. Live each day as if you will live forever. That means, first and foremost, that you should treat the people around you as if they too will be around for a very long time to come.

The choices that you make today matter, because their consequences will grow greater and greater.

– Peter  Thiel

今日が人生最後なら、今日を大切になんかしない。今日で終わらないから、大切にすることに意味がある。今日、身近にいる人は、今後もずっといるかもしれない。今後も続くのであれば、大切なものを大切にした方が良い。

 

目の前の物事や人に向き合っていくこと、なるべくなら毅然としてそれを見つめること。今日をなんとか生きる方法は、僕にとってはそれくらいしかないと思っているし、できる限り、そうありたい。すごく難しいことだけれど、今を見つめるエネルギー、今を生きるパッション、そういうものを養うことが大切な修養だと思う。

単純さ

単純であることは、幸せなのではないかと思っている。何に単純さを感じるかは人それぞれだと思うけれど、その人にとって単純なことは幸せに繋がっているように思う。

 

僕の場合、大切な人といる時間も大切だけれど、1人でいる方が幸せを感じやすい。豪華も嫌いじゃないけれど、素朴な方が幸せを感じやすい。仕事の成果にはそれほど興奮しないけれど、朝や雨上がりの太陽にはワクワクする。自分が気付いていなかったり、知らなかったりすることに出会うのも興奮する。

僕にとっては、1人や太陽や、新しい観方を知るということは、とてもシンプルということだと思う。すごく複雑に見えるもの、よくわからないもの、解けそうにないもの、そういったものも本質はシンプルなはずだと思っているので、基本的には好きだと思う。

 

逆に、なんとなくわかってしまうもの、にはそれ以上の興味を持てないように思う。新しい視点であっても、観方としてありふれていれば、興味を感じづらい。もちろん、どんなものもありふれてはいないはずだから、僕にはそう感じられるというだけだけれど。

単純さ、とは心の作用だと思う。それがそのまま、自分の中に流れ込んでくるという感覚。そういうものを大切にできると良いなと思う。そういうものを大切にできないと、心が死んでいくように感じる。

意味の問題

世の中のほとんどの問題、おそらくはすべての問題は、「意味はわからないけれど、解くことはできる」というものだと思う。

僕は意味という問題にはそれなりに興味があって、意味であったり本質であったりを考えることが好きだと思う。一方で、歳を取ったからか、いわゆる「仕事」をし始めたからかはわからないけれど、意味と問題解決を切り分けることを覚えたし、切り分けた方が意味を探究するために合理的なこともあると思っている。

 

先日、面接でお話しした方が、「勉強が嫌いだから、理系を選んだ」と教えてくれた。理系の方が答えが一義に決まりそうで、めんどくさくなさそうだと思ったらしい。どうせやらなきゃいけないなら、面倒は少ない方が良い。彼女にとっては、(おそらくは忌々しいという意味で)純粋数学の存在理由が気になったらしく、大学では数学を専攻しているという。

また別の方は、受験のために勉強するという枠組みに違和感を感じて、高校から海外に行ったが、就職活動で同様の、枠組みによる違和感を感じていると教えてくれた。

 

どちらの話も、意味と問題解決について語っているのだと思う。前者はどうせ意味なんてわからないから、解くのは楽な方が良いと言っていて、後者は意味がわからないから、問題解決に取り組むのが苦しいと言っているのだと思う。

意味を探究するためには、問題を解くことも必要だと思う。解くことで見えてくるものがある。但し、解いているときには実は意味はわかっていないという点は大切だと思う。すごく単純な話として、僕たちは「1+1」の意味はわかっていなくても、テストで「1+1」という問題は解ける。覚えている、解ける、わかる(「わかる」という行為が可能かは別として)はまったく別の行為で、それぞれの効用と限界を自覚することで思考のスムーズさを保てるように思う。

善悪

僕は人には優しくあれた方が良いし、人を殺したり、自殺をしたりということは、とりあえずは調和的でないと思っている。人が悲しむということ、人が死ぬということは、やはり何かを喪う感じがする。

 

なぜ人を殺してはいけないのか、という問いに対するよくある回答は、人間の、他の生物に対する競争優位の源泉が「集団」であるというものだと思う。集団であることによって、無力な人間は他の生物より優位を保っている。集団を損なうような徳性は、どちらかというと排斥されていくのだという説明である。

中村元によると、初期仏教はもう少しシンプルな説明を行なっていて、「すべての人々は生を愛し、死をおそれ、安楽を欲しているから、自己に思い比べて、他人を殺してはならぬ、また殺さしめてはならぬ」という。控えめに言っても、僕はあまり殺されたくはないし、そうであれば、殺さない方が良さそうである。

 

一方で、機能としては人を殺したり、自分を殺したりという能力を人は有している。それはそれで、よくよく考えるべきことだと思う。そこにもきっと、何か意味があるはずだろう。もしかしたら、知能の発達のために必要な徳性なのかもしれない。

愛するだけでなく憎むこと、善だけでなく悪。そういう観念、そして、二元論に縛られることも、そこから脱しようとすることも、すべては人間の徳性だろう。大切なことは、容易に信じないということだと思う。おばけの存在は信じていないのに、宇宙の存在は信じているというのは、いささかおかしい。そういう感覚は、わりと大切なことだと僕は思っている。

交わること、触れること

生きているといろいろな人や物事に出会うけれど、出会ったとしても、ほとんどは(あるいはもしかしたら、すべては)流れていく。そんなことは当たり前だと思うかもしれないが、なにかと交わってしまった時、触れてしまった時にこそ、いかにあらゆるものが流れているのかを感じるように思う。

 

現実問題としては、流さないと生きていけないだろう。物事の本質に触れるとか、大切に生きるとか、そういう議論の多くを僕があまり好ましく思えないのは、触れるとか大切とかの裏側にあるはずの流しているという事実、疎かにしているという事実を大切にしていないように感じるからだと思う。

少なくとも僕は、かなり疎かに生きている。ただ、疎かに生きていて、ほとんどのものを無視したり、大事にしたりしていないからこそ、交わったり、触れたりした瞬間に感じるものがあると思っている。

 

時間的な長さとか、物理的な近さとか、そういうものとは必ずしも相関しない形で、交わったり、触れたりということは成立すると思う。交わり触れて、大切にしたいと思う、そういう感情は尊いと僕は信じていて、そういう瞬間をありがたく思えると良いなと思う。

もちろん、ほとんどの時間·空間では忘れているそういう感情は、忘れているということを含めて、何か本質的なものに近いのかもしれないと感じる。

アンコンシャス

アンコンシャス・バイアスというのはアンコンシャスなのだから、気付けないということだ。「あなたはわかっていない」という批判は、アンコンシャスであることにアンコンシャスである、という構造を孕んでいる。

 

一方で、どこまでわかっていれば主張をして良いのかは難しいなと思う。生きていくということは、主張していくことである。そして、多くの場合は人と生きていかなくてはならない。僕が生きているように、誰かも生きている。身近な人であっても、遠い人であっても、もちろん確信はないけれど、たぶん生きていて、それぞれに主張がある。

仙人のような在り方もあるとは思うが、僕たちが仙人という存在を知るということは、仙人もまた、人と生きていたということだろう。僕が仙人という生き方の何に感じるかというと、その主張の純粋さ、シンプルさなのかなと思う。

 

少なくとも僕には、わからないことしかない。出来ないことしかない。それで人を不快にしたり、傷つけたりしていると思う。でも、不快にしたり、傷つけたりしたいわけではなく、僕は僕なりに何かを知りたい、取り組みたい、と思っている。それを最優先にはできないけれど、なるべくなら人を不快にすることは望んではいないし、なるべくなら焦らずに、何かに気付いて、気付いたならまた少し歩く、くらいで生きていけると良いなと思う。

なるべくなら、身近な人には幸せであって欲しいとも思う。僕の存在と誰かの幸せは、これは僕の主義として、関係はほとんど無いと思っているけれど、ごく単純な祈りとしてはそう思う。

共同体

現実、つまり、僕たちが今いる場所には法がある。ここで「法」と言っているのは、世界を存在させている決まり事、約束事、法則、みたいなものを指している。

すごく大きくわけると、人が作った法と、人が作ったわけではない法がある。睡眠が不足すると体調が悪くなるとか、怪我や病気がすぐに元どおりには治らないとか、そういったものは人が作ったわけではないだろう。一方、誰かを殺してしまったら、裁判といったプロセスを経て処罰される(私刑されたりはしない)というのは人が作った法だと思う。

 

人が作った法の一種とも言えるが、必ずしも明文化はされていない集団が作った法というのもある。誰かを殺したら、捕まるか捕まらないか、有罪か無罪かということに関わらず、「人殺し」だと言われるだろう。いわゆる規範とか、共同体意識とか、そういったものは集団が作った法だが、誰が作ったかは曖昧で、短期間に個人で変更することは困難である。

共同体というのは、原則としては意識の共有によって成立する境界が形成する。ある共同体には、その共同体に特有の意識があり、それを共有している存在によって、その共同体は構成される。家族にせよ、学校にせよ、会社にせよ、規範や意識の共有が共同体というものを成立させている。その共同体の境界の外では、その規範や意識は必ずしも成立しない。

 

生きていると、息苦しさを感じることもある。縛られている、閉じ込められていると感じることもある。大切なのは、そう感じるにはそれなりの理由や構造があると思うことだと思う。

どういう強さで、どういう範囲で、どういう効果をもたらしている法によって、自分は今、何を感じているのか。変更可能で、選択可能なものがわかれば、少し見通しが良くなることもあるはずだと、僕は思っている。そう思って、常に事象を見つめていたいと僕は願っている。

CODE VERSION2.0 (ローレンス・レッシグ)

緊張

純粋、ということに憧れる。なるべくクリアに、一点を見つめたいと思う。なるべくなら、常に。

 

人間というのは、思った以上に緊張しやすい。街で人とすれ違って緊張し、イライラしている人を見て緊張し、思考がまとまらずに緊張し、ベッドの中でもぐるぐると思考がめぐって緊張する。

もちろん、緊張は悪いことではない。ただ、緊張は思考であったり、身体であったりを滞らせてしまうこともある。思考であっても、身体運動であっても、十分に深まっていないと緊張する。十分に深まっていないと、余計な力が入るのかなと思う。1日の終わりに、そういうことを感じることがある。

 

「1点を見つめる」という表現はやや間違っていて、物事を認識するには差分が必要だそうだ。視点も完全に1点で静止すると認識のための差分が存在しないため、視界がまっくらになるらしい。適切な揺らぎ、ということに憧れるという表現が正確かもしれない。身体も完全に静止はできない。

大きすぎず、小さすぎない。速すぎず、遅すぎない。深く、クリアで、純粋であること。なるべくなら、常に。いろいろなものが押し寄せて、容易に混乱してしまうけれど、そういう在り方に憧れるなと思う。

カラフル

「死」というシステムが生命を持つものたちに組み込まれていることは、当然に合理性を持っていることだろうと思う。

考え方はいろいろあると思うけれど、リソースというのは一義的には限られていて、かつ、1つの場所に留まり続けたりはしない。気温ひとつ取ってみても、夏は暑くて、冬は寒い。ある植物であれば、夏に咲き誇り、秋には枯れ、冬は種となり、また春に芽吹く。ある種の「死」を孕んだ構造が、植物を存在させている。

 

「死」は変化の一形態だと思う。そして、世界は留まることなく変化している。「死」が生命を持つものと世界を繋ぎとめている。

「死」というシステムが存在しないと、生命の存在はずっと困難になるように思う。リソースの問題から、「死」が無いと「生」を生み出しづらい。「死」は絶望にもなるし、希望にもなる。感情的な側面からは、「死」は絶望と希望の調整機能でもあると思う。

 

「死」も「生」も存在を調整しているのであれば、個々の存在については多様なベクトルとスカラーを有していた方が調整機能にとっては都合が良い。多様な方が柔軟性がある。多様さはシステムにとってはポジティブさを持っている。(もちろん、同時にネガティブさも持っているという前提で…)

こじつけだけれど、僕らが多様さを愛していても、ごく自然だということだと思う。生命を持つものが生きている間に為していることは、今をカラフルにすることではないだろうかとも思う。