麻痺と調和

人間に限らず、あらゆる動物がそうなのかもしれないが、少なくとも人間は麻痺していないと、とても生きていられないと思う。

麻痺というより、「知覚や感覚、感情の遮断」というくらいの方が正しいかもしれない。そもそも脳は、受信する情報のすべてを処理したりはしないのだから、もともと麻痺しているとも言える。

 

『論語』にある「矩を超えず」というのは、言うまでもなく非常に難しいことである。適切に受信し、適切に発信するということが、矩を超えないということだと思う。

「適切」というのがまた難しく、社会によって異なる。感受性が強い、というのは、受信する力そのものの話をしているケースもあるとは思うが、多くは受信する信号のピークのズレによって生じる問題のことを指している気がする。

 

受発信はバランスが重要で、その瞬間に所属している社会とのズレの問題以上に、媒体する装置である人間が壊れないようにするのが大切だと思う。

人間というのは変化するのは苦手だが、壊れる時は思ったより簡単に壊れてしまうことがある。壊れてしまったら、元も子もないように思う。

 

自身にも、社会にも、自然にも、調和というものがあると思う。不協和音にならない程度に、それぞれのハーモニーというものを感じることは大切だろう。

一方で、調和しない旋律は調和しないのだから、そういうものだと割り切って、距離を取ることも重要だと思う。そういう場合は、距離を取ることが調和的なのだと思う。

都市、混沌、技術とデザイン

Laymen like to charge sometimes that these designers have sacrificed function for the sake of clarity, because they are out of touch with the practical details of the housewife’s world, and preoccupied with their own interests. This is a mis­leading charge.

[…]if designers do not aim principally at clear organization, but do try to consider all the requirements equally, we find a kind of anomaly at the other extreme.

C.Alexander, “Notes on the synthesis of form”, 1964

デザインの一側面を問題解決とした時に、しばしば問題になるのはユーザの要求である。少なくとも現代の都市におけるユーザの要求は混沌としている。おそらく、常にユーザの要求というのは混沌としていて、矛盾している。いかにそのすべてにそのまま応えないかということが、デザイン行為においては重要になるだろうと思う。

クリストファー・アレグザンダーが「housewife(主婦)」という表現で示しているのは、秩序ではなく、機能に侵されて、感覚を失ってしまった人間の性質のことだと思う。

 

技術の発展は、混沌を力づくで押さえつける方法を人間に与えている。照明や空調は秩序からの解放をもたらすと同時に、総合的な組織の感覚(”sense of the overall organization the form needs in order to contribute as a whole to the working order of the ensemble”)を奪っている。

団欒の場である居間の隣に、静寂を必要とする寝室を配置できるのは、防音材のおかげである。集中という観点では、ノイズキャンセリングのヘッドホンも都市の混沌、矛盾を力づくで解いていると思う。

 

技術は必要であり、重要である。しかし、技術を以って、すべての要求を満たそうとすることをデザインや問題解決だと思ってはいけないだろう。

中心となる秩序があって初めてデザインとして、問題解決として成立すると思う。本来は、何も手を加えることなく維持されるものが美しいと思う。

 

大きな構造は「デザインされる」べきだと思う。しかし、それでは満たされない要求は存在する。一次的には、個人が技術を活用することで、それらは解決される形が望ましいように思う。全体構造と、個別要求は、異なる原理を持っているから、異なるソリューションによって満たされるだろう。

 

磯崎新の『ル・コルビュジエとはだれか』に収録されている「私にとってのアクロポリス」の中に、ポール・ヴァレリイは自然がつくりだす秩序と人為的な、理性の産出による秩序を対比し、理性的秩序を賞賛しているが、アクロポリスの「廃墟」はその理性的秩序が、自然的秩序によって浸蝕されていく過程をみせているという記述がある。

技術は、理性的秩序に属すると思う。そして、理性的秩序は自然的秩序の中に包含されているものではないかと思う。人間も理性も、自然的秩序から発生している。

 

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不用意さ

それなりに気を付けてはいるつもりなのだが、気付かないうちに、不用意に、何かを大切にしたいと思ってしまうなと思う。あらゆるものは、指の隙間からこぼれ落ちていく。こぼれ落ちるのを悲しいとか、寂しいとか、いっそ醜く執着する気持ちが生じてしまう。

 

我儘で好意を抱いたり、敵意を抱いたりする。出来れば、そういうものから逃れたいと思っている時点で、そういう気持ちに囚われているのだと思う。

健全かどうかはわからないが、時間であったり、場所であったりをずらしていくことで、離れていくことでしか、そういう気持ちは相対化しづらいように思う。近くにあると、どうしても絡まってしまう。

 

上善如水、という。おそらく、水は自らが流れることにも、他者が流れていくことにも、非常にさらりとしているのだと思う。だからこそ巡り、永きに渡って維持される。さらりと流れているから、また海であったり、空であったりで出会うこともあるだろう。

作為の中で生きていると、どうしても難しさもあるのかもしれないが、永くあるために、今を流していく。そういう人格になれると良いなと思う。

永久的

人間というものは不安だからなのか、永久的なものを求めてしまうと思う。

 

永久的であるということと、不変であることはイコールではなくて、東洋では「変化」こそ永久的であると捉える傾向がある。中国の革命思想ほどドラスティックだったり、体系だっていたりはしないが、日本もそういう気分の場所だと思う。

しばしば、西洋の「石」に対して、「木」であったり、「紙」であったりの文化とされることもある。日本では、石に対してすら「穿つ」という表現がある。水が石を穿つというのは、とても面白いと思う。

 

変わるから不変であり、朽ちるから不朽である。そう思ってはいても、変わること、朽ちることに対しての虚しさを感じてしまう。虚しさを味わうべきだと思うし、虚しさも巡るものだと思うのだけれど、達観できないのは人間の悲しさだろうと思う。

 

巡ることと調和は、何かしらの関係があるのだと思う。留めておこうとする企みや営みがあるのであれば、巡らせようとする企みや営みもあって良い。留まる構造に対する思索や挑戦があるのであれば、巡る構造に対する思索や挑戦もあって良い。

他人になったことはないので確信はないのだが、僕はとても虚しさを感じやすいと思っていて、しばしばとっかかりを失ってしまう。それは都市のせいかもしれないし、人間のせいのような気もする。

過ぎ去るもの

諸行無常、という。『平家物語』の有名な冒頭にも現れる。言葉としては10代の頃から知っているし、なんとなくそうなのだろうとも思う。

 

最近、物事が過ぎ去るのが早いと感じる。変化も早いと感じる。これはおそらく、僕自身が変化に対して硬直的になっているからだと思う。

あまりに変化を早く感じるので、この変化を認識することにどういう意味があるのか、ということも感じてしまう。朝令暮改、ではないが、明日には無くなってしまうものが多いようにも感じる。明日には無くなってしまうものを、今日、理解することにどういう意味を見い出すかというのは、大切な問いだと思う。

 

変化できなくなることは死に近い、と思っているので、自分のペースでなんとか理解しようという気持ちは持っていられると良いなと思っている。

一方で、変化するだけで生きていくことを困難に感じたり、1つひとつの変化に対して感動を得づらくなるのも事実だと思う。

 

だから、生きているということの本質、変わらないものに対して、探求して感動していくことが大切なのかもしれないと思う。

知りたい気持ち

ものすごく幸運なことなのだと思うが、生きることには疑問を感じても、学ぶことにはあまり疑問を感じたことが無いように思う。もちろん、下らなさを感じることが無いわけではないが、「1+1=2」ということですら難しいのだから、どんな事象にも深遠さがあるのだろうと思うようにしている。

 

僕は、世の中のほとんどのことを知らない。知らなくても利用できるのだから、なんとも楽観的だと思うのだが、すべてを知らないと利用できないとなるとほとんど生きていくことはできないだろう。

そもそも、僕はなぜ生きているのかを知らないし、もっと身近な例で言うと、LEDの電灯が色温度や光量を自在に操作して利用できるのはとても便利だと思うが、理屈はよくわからない。

 

僕が感じていることは、ほとんど何の意味もないのだけれど、僕は僕が感じていることしか感じられないし、僕が感じていることに対して、興味を持って思考をする。

人間が生きる方法は、これくらいしか無いのではないかと思う。考えるために、他人が考えていることを学ぶこともある。他人が考えていることに対して、何かを感じることもある。

 

知りたい気持ちは、素朴であったり、朴訥であったりするのではないかと思う。人と生きていると案外に難しいのだが、1人になると、ただ知りたいだけだなと思ったりできるので、僕はたまに、ちゃんと1人になりたいのだと思う。

どこに行っても人がいるので、なかなかに難しくはあるが、ちゃんと1人になることは、僕にとってはそれなりに大切なことなのだろうと思う。

ミス

個人の責任でミスが発生すると思うほど、僕は人間というものを信頼していない。ミスが発生するのは、ミスを引き起こす要素があるからであり、それが完全に個人に帰属するということはありえないだろうと思う。

ミスはミスが起こる構造の中で起こるものであり、その能力の人物がその場所にいるという点も含めて、構造に依存するものである。

 

もしミスを避けたいと思うのであれば、誤解を発生させる状況、誤操作を許すシステムを改善しなくてはならないと思う。

アサインされた人物の能力の適性が低いというケースも当然あるが、人材配置の変更は人間にとって負荷の高い操作になりがちなので、どちらかというと認知やシステムによって改善した方が良いのではないかと思っている。

 

人間には相性があるので、配置の問題に帰結することもあるし、それも必要な操作ではあるが、それ以外の比較的に変更が容易な要素の改善を徹底して試みた上で取り組むのが良いのではないかと思っている。

なぜなら、その試みで何をどこまで緩和できるのかのインプットを得ることが、その後の設計にとっては重要な示唆になるはずであろうから。完璧な人材を獲得できるケースは、それほど多くはない。むしろ、稀だろうと思う。

 

大いなる無能や極悪というものを蔵する人間はむしろ偉大で、滅多にはいないと思う。小人だからこそ、人は他人に「無能」というレッテルを貼りたがる。

人間の可能性を信じているからではなく、むしろ信じていないから、「無能」な人間はそうはいないのだろうと僕は感じているのだと思う。

目的合理的な相互的行為

問題解決の定義は様々にあるが、私は「問題解決とは、目的合理的な相互的行為である」だと思う。もしくは、「相互的な目的合理的行為」としても良い。

目的合理性を先に持ってくるか、相互性を先に持ってくるかは、本質的には共通だと思うのだが、認知的には「問題解決をしよう」という発想から出発した方が、行為としてスムーズだと感じる。後者のように相互性を先に持ってくると、相互的行為という点に焦点が当たって、コミュニケーションや理解に対する偏重に陥りやすいように思う。私はあくまで理解ではなく、解決に焦点を当てたいので、ここでは「目的合理的な相互的行為」という表現にしたい。

 

「目的合理的」であるのか、「合理目的的」であるのかも大切な問題だと思う。そもそも目的があるのかどうかについては、本来的には無くて、ある人が意志として目的を持つのである。その目的はその人にとってのみ合理的であり、その合理性が行為を定めていく。

「合理目的的」と言った場合には、これとはまったく異なる構造になる。まず「合理」がイデオロギーとして存在し、その合理性が目的を定め、その目的は目的を定めた合理性を正義とする行為を生じさせる。自己完結的な機械として、行為が生まれるというわけである。

 

ものすごく単純に言うと、「手段が目的になる」といったことが「合理目的的」な行為の代表であろうと思う。目的に対して、手段は多様に存在しているのが普通だが、その手段を限定してしまう。一般に、点ではある目的は、線である手段に比べると広がりが小さいのだと思うが、手段の限定によって、目的の広がりはさらに小さくなってしまう。

さらにその小さな目的に対して、手段を限定する。そのうちに、非常に狭い世界での最適化を探究し続ける(それを「探究」と呼べるかどうかは別にして)ことになってしまう。これは非常に知性の無い行為だと、私は思う。

 

ここで言う「知性」は、相互的行為と通じている。相互的行為であるとは、立場を入れ替えても、同様の(もしくは近しい)体験を得られることだと思う。実際に解決に対して、その問題に関わる人々が納得して恩恵を得られていて、別の立場になることに抵抗がないようであれば、それは相互的行為と言える。

知の働きは、広く、深く、多様な直観と思考だと思う。概念としてのリベラルアーツは、知に近いように思う。

 

まず目的があって、その合理性が限定的であることを当事者が知っている。その合理性で押し切るのか、相互的に価値観を取り入れるのか。それによって何を得て、何を失うのか。そういったことを認識し、理解しながら、行為を探るのが、問題解決だと思う。

問題解決に取り組む人には、その目的が我儘なものであることについて、責任が伴う。その責任を「合理」に押し付けるのは、無知性なことだと思う。もちろん、そのような行為は成立するし、それを無知性と捉えるかどうかは価値観なのだが、私としては、責任は自分の我儘によって生じているという方がしっくり来るし、問題解決に対して純粋であると思う。

 

なるべく純粋に物事に向き合っていた方が、美しいのではないかと思う。

気付く精神

事業そのもの、発見そのものはもちろん尊いのだが、それから何かを学ぼうと思った時には、その事業や発見を生んだ精神を知りたいと思う。

それを為したい、それを知りたい。そこに想いが至る、そこに気付くというのは、ある種の必然によって生じるものだと思う。

 

しばしば、まったく交流のない複数の場所で、同時代に同様の偉大な事業が生まれたり、発見がなされたりすることがある。それは、環境であったり、時代であったりがそれを発見することを求めていたり、それを直観する準備を整えていたりするのだと思う。

それと同時に、それを為す人、それを知る人の中にも、それと出会うための準備と必然があると思う。そういった事業や発見は、その時代には受け入れられないことも多いが、偉大な人物というのは自らの事業心や探究心によって、屈することなく為せる人だろう。

 

僕は、「気付くための準備」「気付くための精神」というものはとても大切だと思う。人間が何かを見るということは想像以上に難しくて、ほとんどのケースで、人はほとんど何も見ることができない。

気付く人は、何に気付くのか。気付く人は、どうして気付くのか。それを知ったり、想ったりすることに、事業や発見、人物の歴史を学ぶ意味があるように思う。

空気

「空気がある」ということを考えた人はすごいなと思う。あまりに当たり前にありすぎて、まず存在を認知するのが難しい。

 

水に潜ると呼吸ができず、苦しい。この事実からは「水がある場所と無い場所は何かが異なる」ということはわかるが、水が無い場所に何かがあるどうかは確信しづらい。

空気の動きを「風」と呼ぶ。目には見えないが、空中(この名称が、その認知の難しさを表現している)には何かがありそうだと感じる。それがいわゆる「物」なのか、本当に「空」なのか。形があったり、質量があったりするものなのかどうかを知るのはそう容易くはない。

 

「空気に重さがありそうだ」ということを発見したのは、ガリレオ・ガリレイらしい。その発見から、我々の周囲にはどのくらいの重さ(「重さ」という表現は正確さに欠くが)の空気があるのか、それはどういう性質を持ち、どういう効用があるのか。「気体(ガス)」とは何かということが長い時間をかけて考察されていく。

マイケル・フェデラーの『ロウソクの科学』は有名だし、三宅泰雄の『空気の発見』は科学的態度を知る意味でも非常によい書物だと思う。

 

僕たちは空気は「当然」あると思っているが、では、地球はどのように空気を獲得したのか、空気は昔から「空気」なのかということについては、当然こうであるという考えを持ちきれないだろうと思う。

当然だと思っていることには、当然、それが当然であるだけの構造があるのだが、それを知るのは案外に難しい。当たり前がどのように当たり前なのかはとても大切な問題だと思う。

 

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