予想する思考、仮説する思考

数学において、「予想」とは未だ真とも偽とも証明されていない命題をいう。リーマン予想や、1995年に証明されて定理となったフェルマー予想(フェルマーの最終定理)、京都大学の望月教授の論文で脚光を浴びているABC予想などが有名だと思う。

証明できていないのに、なぜ命題が存在するかというと、人間の観察や考察から確からしいと直観されるからだと思う。科学哲学においては、予想とは「不確定な推測に基づいて正しいと推定されている命題」とされるらしい。

 

予想と似た言葉に「仮説」がある。「仮説」は「一般的に受け入れられた事実に基づいて検証可能」でなければならない。その意味で、「予想」と「仮説」はまったく異なるものである。

コンサルタントの問題解決の方法として有名になった「仮説思考」は、検証可能でなければ意味がないから「仮説」が正しい。

 

検証可能であるという定義から鑑みると、「仮説」は計算機によって再現可能である。検証できる枠組みがあって、その中に仮説が含まれるのだから、枠組みの中での演算が仮説と検証、ということになると思う。

しかし、いくら仮説と検証を繰り返してみても、予想はできない。なぜなら、仮説は(厳密には)不確かな変数を許さないからである。

 

観察を通じて「予想」するのは、現時点では人間に求められる取り組みではないかと思う。「よくわからないけれど、そういう気がする」というのは、適当な人間にしか難しいように感じる。

予想がない仮説は、広がりが少ないとも感じる。マーケティングにおけるABテストを繰り返すシステムは、予想がないから、どこかで行き詰まるのだと思う。そのシステムが持つ枠組みが、その到達点を決めるように感じる。

 

言葉の問題なので、「予想」を「大胆な仮説」と呼んでも別に構わないが、とにかく「予想」や「大胆な仮説」は、仮説思考を有用に発展させるために重要なのではないかと感じる。

「予想」と「仮説」の間くらいに、何かおもしろいものがあるように思う。

デザインと規格

デザインとアートの違いの1つとして、それが複製を前提としているかどうかという点がある。デザインは基本的には複製を前提としており、再現可能なものである。

 

複製できるためには、それが何かしらのルール(規格)によって記述されている必要がある。その記述は、Aという人が読んでも、Bという人が読んでも、同じように解釈されることが望ましい。

記述に用いられるルールが厳密に定義されていればいるほど、解釈の幅は小さくなり、「複製」という観点では精度が高くなりやすい。解釈の幅が小さいことが必ずしも良いことかどうかは別にして、複製を効率的に行うためには規格の定義が有効である。

 

例えば、オフィス用ビルにせよ、居住用マンションにせよ、天井の高さのバリエーションはおおよそ決まっている。建物によって寸法のルールが異なると、建築に関わる人々はいちいち測量しないとどのように作業して良いかわからない。また、建築の部材をリーズナブルな価格で揃えることも困難になるだろう。

もちろん、独自に造作することもあるし、建築の規模がある程度大きければ、その建物のためだけに独自の規格を構成することも可能であろう。ただ、それはコストとのトレードオフになる。

 

何かしら大きなデザインに携わる場合には、規格を理解すること、規格を意識することがとても重要だと思う。

量子力学的

デカルトであったり、古典力学であったりの恐ろしいところは、その近似が人間にとってわかりやすい点だと思う。

結果には原因があり、それらは対になっている。分解と統合は可逆的である。これらは思考操作という、厳密性の低い脳内ではわかりやすい。

 

仏教でも「因果」ということが言われる。しかし、そこに「縁起」という、ある事象はそれ自身が独立して存在するものではないという概念が追加され、故にすべては「空」ということになる。

空観は、『中論』を著したナーガールジュナ(龍樹)によって基礎づけられた概念とされ、紀元3世紀頃に発達している。縁起と空という考え方は、それはそれでとてもリーズブルで理解しやすいように感じる。

 

人間というのは、自分の思い込みによって世界を解釈してしまう。だから、「わかりやすい」ということは恐ろしいことだと思う。

わかりやすいと、その考え方で以ってわかってしまう。一度わかってしまうと、そう簡単に「わからない」という感覚を持つことはできない。

 

量子力学的にいうと、原因と結果は1対1では対応しないし、分解して統合すれば元に戻るということもない。個人的には、その方が世界の真実に近いように感じるが、わかりやすくはないので、そんな風に世界を解釈できるように人間が変化するのは不可能か、もしくは、とても時間がかかるように感じる。

もちろん、100年前の常識について、我々は「何故、そんなことを当たり前だと思っていたのだろうか」と感じることも多いのだから、もしかしたら、今まさに生まれた子どもが大人になる頃には、デカルト的、古典力学的な感覚を信じていた人々の気持ちがわからないということになるのかもしれない。

 

「わからない」と思い続けることが、多少なりとも物事をわかっていくためには不可欠な感覚だと思う。

健康であったり、病気であったりに関する議論はたくさんあって、「病気 = 身体が有している恒常性と現実生活にギャップが生じている状態」として、むしろ生活に関する振り返りと変化・発展の機会とする考え方もある。

それだけ、病にいかに向き合うのかという問題が人間にとって普遍的なのだろうと思う。

 

身体・精神に何らかの異常(変化)が起こり、社会生活に不都合が生じて専門的な治療を要する状態になると、世の中では一般に「病気」と言われると思う。

ただ、身体的なものにせよ、精神的なものにせよ、変化は日々生じているし、その中に病的なものを抱えているのが人間だと思う。生物は、機能としては停止(死)に到る道を進んでいる。別に身体的・精神的な不都合を特別なこととして扱う必要はないように思う。

 

痛ければ、それに対して工夫して生きる。苦しければ、辛ければ、それに対して工夫して生きる。だから、「養病(病を養う)」という考え方がある。

生きるという行為にはいろいろな側面があると思うが、病を養っていくというのは、1つの真実に近いのではないかと思っている。

 

どうせ一緒に生きていくのだから、闘っても仕方がない。友人にもなれるかもしれない。距離を置いて付き合うことも、昵懇することもあろうと思うし、そんな対象にするほどもないほどに身近なものであるようにも思う。

コミュニケーション

コミュニケーションが目的なのか、手段なのかというと、僕は「手段」だと思っている。理解についても同様で、理解はそれ自体が目的になることは稀で、ほとんどの場合は手段だと思う。

単純に、コミュニケーションや理解を目的にしてしまうと際限がなくて疲れてしまうので、あまりそれらを目的にしたくないという不精な気持ちもある。

 

昔からそんな風に思っていたわけではなく、きっかけはチャットツールだったように思う。僕はSNSはあまり利用しないので、もしSNSを利用していたら、もう少し早くにそういう考えに至っていたのかもしれない。

 

コミュニケーションにおいては投下される時間がとても重要だと思う。通常、時間と品質はほぼ比例する。しばしば「コミュニケーションの質」ということが言われるが、コミュニケーションの天才を除いて、一定の量によってしか、品質を担保し続けることはできないと感じる。投下される時間はコミュニケーションを議論する上で支配的な変数の1つだと思う。

もう1つの重要変数は距離である。距離は、コミュニケーションから得られる情報量や求められる即時性などと相関がある。もちろん幅はあるが、対面での対話は目の前にいるので、すぐに応えてくれるという期待がある。手紙やメールは距離が離れており、メッセージを発信した際に相手が必ずしもいると期待しないから、求められる即時性が低い。

 

「投下される時間」と「距離」を軸に取ると、対面での対話は「時間をかけて、近くで行う」コミュニケーション、手紙やメールは「時間をかけて、遠くで行う」コミュニケーションだと思う。「時間」には相手を想っている時間も含まれるので、手紙というのは濃いコミュニケーションになりやすい。

では、チャットツールはどうかというと、僕は「時間をかけずに、(情報的には)近くで行う」ものと思い込んでいる時期があった。時間をかけないので質は担保しづらい。距離が近いので即時性が求められるが、物理的な距離ではないので得られる情報が限定的で、それがさらに質を悪化させてしまう。そんなわけで、どのように活用して良いのかわからず、混乱してしまっていた。

 

個人的には、コミュニケーションはやはり時間をかけずには質が担保されないので、「時間をかけて、遠くで行う」ことがチャットであっても基本だと思う。一呼吸くらい置いて、落ち着いて考えた方が良い。ただし、ちょっとしたやりとりにおいては「時間をかけずに済ますこともできる」。

チャットツールは「時間をかけて、遠くで行う」手紙的なコミュニケーションと、「時間をかけずに、近くで行う」チャット独特のコミュニケーションの双方の性質をまとっていて、その双方を同じプラットフォーム上で利用できるところに良さがあると思う。物理的な距離による親密さは生じないが、物理制約を超えて時間が投下されることによる親密さが生じ得るように思う。

 

チャットツールでは「どのメッセージに返信するか」、逆に言うと、「どのメッセージは無視するか」を決めるために時間が必要となる。「無視するか」という思考は、従来のコミュニケーションには(明示的には)あまり無いため、この点は理解するのに時間がかかったように思う。あらためて気付いてみると、この思考はコミュニケーションにおいてかなり本質的な問題を蔵していると個人的には感じる。

消費する時間配分の違いによって、メッセージの内容にかける時間が限られてしまうため、意識しないと内容について思考する時間が短くなりがちである。その点は注意が必要だと思う。いずれにせよ、とにかく大事なことは、返信する人にしか返信しないことだと思う。

 

考察の内容自体はどうでも良いのだが、新たな方式が発見され、それぞれの性質が異なると感じたことによって、僕はコミュニケーションを手段として捉えるようになったように思う。

そして、コミュニケーションを手段として捉えるようになったことで、そこから得られる理解についても、適切な度合いで良いのだと思うようになったように思う。

人間らしさ、機械らしさ

知的さには、基準と広がりがある。言い換えると「らしさ」があるということだと思う。子どもらしさ、大人らしさ、コンサルタントらしさ、クリエイターらしさ、日本人らしさ、イギリス人らしさ…。

子どもらしい大人がいたり、コンサルタントらしいクリエイターがいたりもする。どのような基準も、どのような広がりも特性に過ぎず、良い悪いはない。コンサルタントよりコンサルタントらしいクリエイターがいても問題ないし、だからこそ提供できる価値もあるかもしれない。

 

「らしさ」を理解することで、他者との取り組みの生産性を高めることができると思う。

生産性と取り組みの目的の関係、および、生産性の定義についてはここでは議論の外に置いておくが、「理解は目的ではない」という点はとても重要である。目的に対して十分な生産性が得られれば、それは十分な理解と言えるし、理解度の高低に関する議論は認識に依存するところも大きいため、(実務上は)意味を失いがちである。

 

私は、自分であろうと他者であろうと、人間であろうと機械であろうと、問題解決においては同様に道具であると思っている。持続可能性が保たれる範囲内であれば、その扱いに違いはないだろうと思う。

人間と機械で何かに取り組むと考える場合、重要になるのは特性の違いである。ざっくり言うと、データ処理においては人間は適当に考えるのが得意、機械は網羅するのが得意であろう。一方で、具現化においては人間は(データ処理が適当であるがゆえ)対象の規模に対して比較的に精緻で、機械は(膨大なデータ処理を行うがゆえ)粗雑になってしまう。

 

掃除をすることを考えてみると、対象の規模に対して処理しているデータは機械の方が多いだろう。ルンバは壁の位置、部屋の広さ、障害物の形状、埃の過密などのデータをインプットして、掃除をする。吸い込む力、移動速度、ある地点を通過する回数などが制御されている。

人間も同様の処理は行なっているが、データという観点では概ね適当に処理をしている。だいたいこのあたりは綺麗になったなとか、この裏にも埃が溜まっているかもしれないな、といった具合に。しかし、髪の毛一本に気付くのは人間だったりする。

 

なんとなく、人間より機械の方がミスをしないというような印象がある。しかし、データ処理においてはそうかもしれないが、具現化においては機械の方が現時点ではまだミスが多い。

それは私たちも感覚としては理解していて、例えば同居人が家の掃除をしてくれた時と、ルンバが家の掃除をしてくれた時とでは、ルンバに対しての方が完璧さに対する期待値が低いように思う。まあ、ルンバだし、このくらいのゴミは残るよな、みたいな感じに。

 

問題解決においては、人間も機械も大して変わらないのだから、機械もミスして当然である。むしろ、具現化においては機械は人間よりミスをしやすい。Amazon Goの返品ポリシーを見れば、Amazonがそれを正しく理解していることがわかるだろう。

まずは機械に対して寛容になることが、現代の問題解決においては重要ではないかと思う。

知的とは何か

「あなたは人間ですか?」と訊かれたとする。理由は人それぞれだと思うが、多くの人は「おそらくはそう」だと思う。

では、「あなたは人間的ですか?」と訊かれたら、どうだろうか。少し難しい気がするが、なんとなく自身の「人間的な度合い」について、それぞれに思うところがあるだろう。

 

さらに、「あなたは知的ですか?」と訊かれたら、どう答えるだろうか。例えば、3歳の幼児が1桁の足し算ができれば、「知的な子ども」だと思う。しかし、15歳の少年が1桁の足し算ができても、あまり知的だとは思わないだろう。

「人間」にせよ、「人間的」にせよ、「知的」にせよ、基準と広がりを持った概念で、「生物学的分類に基づけば人間」であったり、「あいつに比べれば人間的」であったり、「3歳児にしては知的」であったりする。

 

「知的な度合い」について、検証可能な方法を導入したのはアラン・チューリングだと思う。

とりあえず「人間らしい知的な度合い」という問題に限定すると、受け応えにおいて、人間と区別ができなければ、そのやりとりの範囲内においては十分に知的である、と考える。これが基本的なチューリングテストの構造で、例えば1桁の足し算においては、人間に問いかけても、コンピュータに問いかけても、答えは同じで区別がつかない。その場合、コンピュータは1桁の足し算において、十分に人間らしく知的である。

 

次は、3桁×3桁の掛け算を問いかけることを考えてみる。おそらく、コンピュータの方が解答は早いだろう。もしかしたら、人間は間違えるかもしれないが、コンピュータは間違えない。

優れているのがコンピュータで、エラーを起こすのが人間という考察によって、人間とコンピュータは区別可能となる。そうすると、素早く正確に計算できることは、人間らしい知的さではないことになる。

 

繰り返しになるが、「知的」には基準と広がりがあり、人間らしい知的さとはかなり曖昧な概念である。一方、コンピュータの知的さは、演算を間違えることはないとすれば、とりあえずは処理速度で定義されることになる。

基準があまりにも異なるため、コンピュータと人間で知的さを比べることは、あまり意味がないことだと思う。コンピュータが演算において人間より高い正確性と処理速度を持つだろうことは、コンピュータの理論が構築された時点で自明なのだから、今更そのような議論をしても仕方がないだろう。

 

デジタル化、情報化という社会の変化に対して、「知的」および知的さの活用という問題を少し扱ってみたい。その出発点として、「人間らしい知的さ」と「コンピュータらしい知的さ」をとりあえず定義するところから始めようかと思う。

扉が開かない時に、人は感覚的に「扉が壊れている」と思ってしまいがちだと思う。実際には扉が壊れていることはほとんどなくて、開き方が間違っていることが多い。

扉というのはただのメタファーで、霧というのか、無明というのか、そういうものに対して歩んでいくのが人生だとした時に、人は躓くと「何故こんなところに石があるのか」と憤ったり、悲しんだりしてしまう。

 

扉には開き方があり、道には歩み方がある。それに想いを馳せずに憤ってしまうと、扉を壊したり、石を蹴飛ばしたりして、被害を大きくしてしまう。

もちろん、壊してでも、傷ついてでも進まなければいけない時もあると思う。しかし、壊れた扉は決して完全には元に戻らない。できることなら、次にその扉を開ける人のためにも、扉の開け方を少しでも学んで進みたいと個人的には思う。

 

もし、それが扉であるならば、開き方が必ずあるはずだと僕は信じている。

思い込みがあると、扉を開けることは難しくなってしまう。なるべく、純粋な好奇心で扉に対峙できると良いなと願っている。

不安

不安な人間というのは、「論理」に対して論理的でなかったり、「科学」に対して科学的でなかったりする。もっと言うと、「知識」に対して知識的でなかったりすると思う。

僕自身、論理、科学、知識に頼って振る舞っている時はたいてい不安な時だろうと思う。

 

それは僕が人間だから、なのかもしれないが、論理にも科学にも知識にも限界がある。突き詰めていくと、論理では測れない領域、科学では測れない領域、知識では測れない領域が見えてくる。それはとても論理的で、科学的で、知識的な現象である。

しかし、突然そういったものにぶつかると強い不安に襲われる。不安は人を論理に、科学に、知識に走らせる。それらがあまりに簡単だから、理解できる世界に飛び込もうとする。そして、そこで世界を形成し、出てこられなくなる。「安心」という不安を抱えてしまうと、対話はほとんど不可能になってしまう。

 

人が生きていると、意図を持ってしまう。少なくとも、意図に巻き込まれてしまう。意図は、境界の「適切さ」を設定し、人を「正しさ」で縛ろうとする。「適切さ」へ最適化することは、単に「正しさ」という狂気を正当化しているのだと思うのだけれど、さも正しいこととされてしまう。

もちろん、それは正しくて、それが「人が活動する」ということなのだと思う。だから、「論理」という扉を開けて、その部屋に入ることは必要である。ただ、いつでもその扉から出られることは大切なのだと僕は思っている。多くの場合、扉を出入りしているということは、扉の外からも、扉の内からも奇異に見えるし、あまり正しいことではないのだと思うが、それは僕にとっては重要なことなのだと思う。

 

晋代の漢詩に「心を安んじて恬蕩、志を浮雲に棲ましむ」という。とても良い一節だなと感じる。

デザインの境界条件

デザインという行為に限らず、何かしらの形(解)を発見しようとする時には、法則(方程式)に加えて境界条件が必要となることが多い。

例えば、物理学における「ニュートンの運動方程式」は、(非相対論的古典力学において)質点の運動を記述できるが、初期条件(位置や速度など)を与えないと具体的な運動を導くことはできない。また、時間発展方程式であるニュートンの運動方程式において、「時間」は特別な境界条件として扱われる。

 

デザインにおいて「法則」とは、その形が持つ世界観やコンセプトであろうと思う。そのデザインの中心に据えられている、すべてを束ねる力が「法則」である。

しかし、デザインが実際的な行為であるからには、必ず拘束が存在する。物理学における「時間」と似ているが、「納期」はわかりやすい境界条件(拘束条件)だと思う。

 

Wikipediaの表現がわかりやすいように感じたので、参考にすると、「境界条件は、興味のある解の探索領域とそれ以外の領域とを分けるために設定」される。境界条件は方程式から導くことはできず、多くの場合は、取り組んでいる方程式より一般的な法則によって決まっている。

デザインにおいて、境界条件とは問題定義であり、かつ、該当するデザイン行為によっては操作できない世界の在り様である。

 

境界条件の興味深い点は、それが拘束や制約であると同時に、解を導くために不可欠なものである点である。境界条件が無いと、具体的な解を導くことができない。具体的な解を導けない、ということは、デザインという行為が成立しないことに近い。

「境界条件」を世界、「方程式」をコンセプトと捉えると、デザインとは「世界を観察し、適合するコンセプトを発見する行為」、あるいは「拘束の中で、世界に働きかけるコンセプトを打ち立てる行為」のいずれかだと思う。前者は自然科学的で道教的な価値観、後者は人間科学的で儒教的な価値観だと感じる。